今日は鎌倉幕府や室町幕府で活躍した「評定衆(ひょうじょうしゅう)」について、分かりやすく解説していきます!
歴史の授業で聞いたことがあるけれど、「どんな役職なの?」「何をしていたの?」と疑問に思っている人も多いですよね。さらに、よく似た「引付衆(ひきつけしゅう)」との違いも気になるところです。
この記事では、評定衆の成り立ちや役割、歴史上の変化をしっかり解説します!テストに出やすいポイントや語呂合わせも紹介するので、歴史の勉強がスムーズに進むこと間違いなしです。
それでは、早速見ていきましょう!
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評定衆とは何か?分かりやすく解説
鎌倉時代、幕府の政治を話し合いで決めるために作られたのが「評定衆」です。将軍や執権が独断で決めるのではなく、有力な御家人たちと合議(話し合い)をしながら政治を進めるための仕組みでした。
では、具体的にどのような役職だったのでしょうか?詳しく見ていきましょう!
評定衆とは?鎌倉・室町幕府の重要な合議機関
評定衆とは、鎌倉時代から室町時代にかけて幕府の政治を話し合いで決めるために設置された重要な機関です。簡単に言うと、「幕府の大事な決定をみんなで相談して決めるチーム」のようなものです。
特に鎌倉時代では、評定衆は幕府の最高意思決定機関でした。政治の方針や法律を決めたり、訴訟(裁判)を担当したりしました。現代でいうと、政府の「国会」と「裁判所」が合体したような役割ですね。
しかし、時代が進むにつれて評定衆の力は弱まり、室町時代には「ただの肩書き」になってしまいました。最初は強い権限を持っていたのに、どうしてそうなってしまったのでしょうか?その理由を詳しく見ていきましょう!
評定衆を作ったのは誰?北条泰時が設置した理由
評定衆を作ったのは、鎌倉幕府の3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)です。彼は「合議制(みんなで話し合う制度)」を大事にしていて、1225年に評定衆を設置しました。
その理由は、鎌倉幕府をもっと安定させたかったからです。実は、その少し前の1221年に「承久の乱(じょうきゅうのらん)」という大きな戦いがありました。この戦いで幕府は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に勝ちましたが、その後も幕府の中で「誰が一番偉いのか?」という問題が続いていました。
そこで、泰時は「一人の力で政治を動かすのではなく、みんなで話し合って決めよう!」と考え、評定衆を作ったのです。この仕組みのおかげで、鎌倉幕府はしばらく安定しました。
評定衆の役割と仕事内容を詳しく解説
評定衆の仕事は、大きく分けて3つあります。
① 幕府の政治を決める
② 法律を作る(御成敗式目など)
③ 訴訟(裁判)を行う
特に、御成敗式目(ごせいばいしきもく)という法律を作ったことは有名です。これは日本で初めての武士向けの法律で、鎌倉幕府が作ったルールをまとめたものです。評定衆は、この法律に基づいて問題を解決していました。
また、裁判では土地の争いなどを扱っていました。御家人(幕府の家来)の中には、「あの土地は俺のものだ!」「いや、俺のだ!」とトラブルを起こす人もいました。こうした問題を公平に裁くのも、評定衆の仕事でした。
評定衆と北条氏の関係|なぜ北条氏が独占したのか?
評定衆は最初、有力な御家人や公家(くげ)などがバランスよく選ばれていました。しかし、時代が進むにつれて北条氏の権力が強まり、評定衆のメンバーはほとんど北条一族になってしまいました。
これは、幕府の政治の中心が「執権(しっけん)」に移ったことが原因です。執権は北条氏が代々独占しており、「評定衆も北条氏の身内で固めよう」という流れになっていきました。
結果的に、評定衆はただの「名誉職」になり、実際に政治を動かすのは執権やその身内(得宗家)になってしまいました。
室町幕府の評定衆|鎌倉幕府との違いとは?
室町時代にも評定衆は存在しましたが、鎌倉幕府とは違い、ほとんど形だけの存在でした。
室町幕府では、将軍の補佐役として「管領(かんれい)」が政治を担当しており、評定衆の役割はほとんどありませんでした。また、足利将軍家の親族が多く評定衆になり、権力を持つことはありませんでした。
鎌倉幕府の評定衆は実際に政治を動かしていましたが、室町幕府の評定衆は「肩書きだけ」の役職だったのです。これが、両者の大きな違いといえます。
評定衆とは何か分かりやすく:引付衆の違い
さて、ここまでで評定衆がどのような役職だったのかを理解できましたね!次は、似た役職である「引付衆(ひきつけしゅう)」との違いについて解説していきます。
「評定衆と引付衆って、どこが違うの?」という疑問は、歴史のテストでもよく出題されます。しっかり違いを覚えておきましょう!
引付衆とは?評定衆との違いを簡単に解説
引付衆とは、裁判(訴訟)の専門機関です。1249年に5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)が設置しました。一方、評定衆は幕府の政治全般を話し合う機関で、裁判だけでなく、法律の制定や行政なども担当していました。
つまり、
✅ 評定衆 = 政治も裁判も担当する幕府の最高機関
✅ 引付衆 = 訴訟(裁判)を専門に扱う機関
と覚えておくといいでしょう!
さらに、引付衆は北条氏がより効率的に裁判を進めるために作った組織で、特に「土地争い」に関する裁判を担当していました。当時の武士にとって土地はとても大事な財産だったので、頻繁にトラブルが発生していたのです。
引付衆ができるまでは、評定衆がすべての裁判を担当していましたが、「政治の話し合い」と「裁判」を両方やるのは大変だったため、専門の機関として引付衆が設けられました。
評定衆と評定所の違いとは?混同しやすい用語を整理
「評定衆」と「評定所」は、名前が似ていますが意味が違います!
✅ 評定衆(ひょうじょうしゅう) = 幕府の政治や裁判を話し合う役職
✅ 評定所(ひょうじょうしょ) = 評定衆が会議を開く場所
つまり、評定衆が集まって議論をする「場所」が評定所というわけですね。
さらに、江戸時代には「評定所」が幕府の最高裁判所のような役割になり、「司法機関」として発展しました。しかし、鎌倉時代の「評定所」は、あくまで会議の場を指すだけでした。
歴史のテストでは、「評定所は何をする場所か?」といった問題が出ることもあるので、混同しないようにしっかり区別しておきましょう!
13人の合議制と評定衆の関係
実は、評定衆のもとになった制度が「13人の合議制」です。
1199年、鎌倉幕府の2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が政治を行う際に、13人の有力御家人が話し合って決定する「合議制」が導入されました。この13人の中には、北条時政(ほうじょうときまさ)、大江広元(おおえのひろもと)、三浦義澄(みうらよしずみ)などがいました。
しかし、13人の合議制はあまりうまく機能せず、すぐに崩れてしまいました。その後、3代執権・北条泰時が「もっとしっかりした合議制を作ろう」と考え、1225年に正式な制度として評定衆を設置しました。
✅ 13人の合議制 = 将軍を補佐するための話し合いの場(すぐに崩壊)
✅ 評定衆 = 幕府の政治・裁判を決める正式な制度(長期間続く)
この違いを覚えておきましょう!
評定衆のその後|鎌倉幕府の滅亡とともに消えたのか?
1333年、鎌倉幕府が滅亡するとともに、評定衆も事実上の役割を終えました。
しかし、その後の室町幕府でも「評定衆」という役職は引き継がれました。ただし、室町時代の評定衆は「名誉職」としての意味合いが強く、実際の政治にはあまり関わりませんでした。
江戸時代になると、政治や裁判の制度がより細かく整備され、「評定衆」という名前は消え、「評定所」という裁判所のような機関に変わりました。
テスト対策・覚えやすい語呂合わせ&重要ポイントまとめ
歴史のテストで評定衆が出題されるときは、設置した人物や役割の違いを問われることが多いです。そこで、語呂合わせを使って覚えやすくしておきましょう!
語呂合わせ
✅ 「評定衆(ひょうじょうしゅう)と評定する(話し合う)!」
✅ 「泰時(やすとき)が作った評定衆、合議で政治を安定化!」(1225年)
✅ 「引付衆(ひきつけしゅう)は裁判専門、評定衆とは別!」(1249年)
テストの重要ポイント
- 評定衆を作ったのは? → 北条泰時(1225年)
- 評定衆の役割は? → 政治・法律・裁判を決める最高機関
- 引付衆との違いは? → 評定衆は政治全般、引付衆は裁判専門(1249年)
- 評定衆と評定所の違いは? → 評定衆は役職、評定所は会議の場
- 13人の合議制との違いは? → 13人の合議制はすぐに崩壊、評定衆は長く続いた
総括:評定衆とは何か分かりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 評定衆とは?
- 鎌倉幕府・室町幕府に設置された合議制の機関
- 幕府の政治や裁判を話し合いで決める役割
- 鎌倉時代は幕府の最高意思決定機関だったが、室町時代には形骸化
- 誰が作った?
- 1225年、3代執権・北条泰時が設置
- 「幕府の政治を安定させるため、みんなで話し合う仕組み」を導入
- 評定衆の役割
- 政治の方針決定
- 法律の制定(御成敗式目など)
- 裁判(御家人の土地争いなど)
- 評定衆と北条氏の関係
- 初期は有力御家人がメンバー
- 北条氏が権力を握るにつれ、北条一族が独占
- 後期になると「ただの名誉職」に変化
- 室町幕府の評定衆
- 形だけの存在で実際の政治権力は持たなかった
- 政治の実権は「管領」が握る
- 評定衆と引付衆の違い
- 評定衆:政治全般を扱う幕府の最高機関
- 引付衆:1249年、北条時頼が設置した裁判専門の機関
- 評定衆と評定所の違い
- 評定衆:政治や裁判を行う役職
- 評定所:評定衆が話し合いを行う場所(会議場)
- 13人の合議制との関係
- 1199年、源頼家時代の「13人の合議制」が元になっている
- しかし13人の合議制はすぐに崩壊 → 泰時が正式な制度として評定衆を作る
- 語呂合わせで覚える
- 「評定衆(ひょうじょうしゅう)と評定する(話し合う)!」
- 「泰時(やすとき)が作った評定衆、合議で政治を安定化!(1225年)」
- 「引付衆(ひきつけしゅう)は裁判専門、評定衆とは別!(1249年)」
- テストのポイント
- 評定衆を作ったのは? → 北条泰時(1225年)
- 引付衆との違いは? → 評定衆は政治全般、引付衆は裁判専門(1249年)
- 評定衆と評定所の違いは? → 評定衆は役職、評定所は会議の場
- 13人の合議制との違いは? → 13人の合議制はすぐ崩壊、評定衆は長く続く
