「イギリスのインド植民地支配」と聞いて、どんなイメージを持ちますか?
「インドに鉄道を作った」「英語を広めた」「近代化に貢献した」といった話もありますが、一方で「ひどい搾取があった」「大勢の人が亡くなった」という悲しい歴史もあります。
この記事では、イギリスがどのようにインドを植民地化したのか、そして「なぜひどいと言われるのか」を分かりやすく解説します。塾長と一緒に、歴史の真実を見ていきましょう!
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イギリスのインド植民地をわかりやすく!背景と経緯
イギリスがインドを植民地にしたのには、大きな理由があります。世界の歴史を動かした「大航海時代」から始まり、やがてイギリスの会社「東インド会社」がインドに進出しました。
さらに、インドの人々が反発し、大きな戦いも起こりました。では、どのようにしてイギリスの支配が始まったのか、一つずつ見ていきましょう。
イギリスがインドを植民地にした理由とは?大航海時代からの進出
16世紀からヨーロッパでは「大航海時代」と呼ばれる時代が始まりました。船を使って世界中を探検し、新しい土地を見つけて貿易をすることがブームになったのです。
イギリスも「インドには宝石や綿布、スパイス(香辛料)がたくさんある!」と知り、貿易を始めました。しかし、すでにポルトガルやオランダもインドで商売をしていたため、イギリスは「どうやったらインドを独占できるか?」と考えました。
そこで登場したのが「東インド会社」という貿易会社です。
東インド会社の役割とは?インド支配の始まり
東インド会社は1600年に設立され、最初はただの貿易会社でした。しかし、「インドで商売するには戦うしかない!」と考え、軍隊を持つようになったのです。
1757年、「プラッシーの戦い」で、イギリス東インド会社はインドのベンガル地方を支配しました。ここから、イギリスの植民地支配が本格的に始まります。
インドの王様たちは「イギリスの力を借りれば安全だ」と考え、条約を結んでしまったのです。しかし、それは大きな間違いでした。イギリスは少しずつインドの土地を奪い、ついには広大な地域を支配するようになりました。
イギリスの統治方法とは?直接統治と間接統治の違い
イギリスはインドを「直接統治」と「間接統治」の二つの方法で支配しました。
- 直接統治:イギリスが直接インドを管理し、総督(イギリスの代表)が統治しました。
- 間接統治:インドの王様(マハラジャ)を表向きの支配者にし、実際の政治はイギリスが行いました。
「分割統治」という方法もありました。これは「インド人同士を争わせて、イギリスへの反発を防ぐ」という作戦です。たとえば、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒を対立させたり、各地の王様を競わせたりしました。
1857年のインド大反乱とは?植民地支配への大規模な反発
インド人たちは、イギリスの支配に不満を持っていました。そして1857年、インド人兵士(シパーヒー)が反乱を起こしました。これが「インド大反乱(セポイの乱)」です。
この反乱では、イギリスの統治に反対する多くの人々が戦いました。しかし、組織的な力が足りず、イギリスに鎮圧されてしまいました。そして、この反乱をきっかけに、イギリス政府がインドを直接統治するようになりました。
つまり、それまでの「東インド会社の支配」から、「イギリス本国の直接支配」に変わったのです。
イギリスがインドで築いたインフラとその影響
イギリスはインドに鉄道や学校を作りました。これを「イギリスがインドを発展させた」と言う人もいます。
しかし、鉄道は「イギリスの都合」で作られたものでした。インドの人々のためではなく、「イギリスがインドの資源を効率よく運ぶため」だったのです。また、学校で教えられるのはイギリスの文化や英語であり、インドの文化は軽視されました。
つまり、イギリスはインドを「より豊かにするため」ではなく、「支配をしやすくするため」にインフラを整えたのです。
イギリスのインド植民地をわかりやすく:ひどい理由
イギリスはインドを発展させたという意見もありますが、実際には「ひどいこと」をたくさんしました。インド経済の破壊、飢饉、大虐殺、分割統治など、数々の問題がありました。では、具体的にどんなことがあったのか、見ていきましょう。
インド経済の破壊!イギリスによる徹底的な搾取
イギリスはインドを植民地にすることで、インドの経済を大きく変えてしまいました。インドはもともと世界でも有数の「綿布産業」が発達した国でしたが、イギリスは自国の利益を優先するために、インドの伝統的な産業を破壊しました。
まず、イギリスはインドで作られる綿布に高い税金をかけ、その代わりにイギリス製の安い布を大量に輸入しました。その結果、インドの職人たちは仕事を失い、多くの人々が貧困に陥りました。
また、インドの農民たちは、自分たちの食べる作物ではなく、イギリスに売るための作物(綿花や紅茶など)を作らされるようになりました。そのため、食糧不足が深刻化し、大飢饉の原因にもなりました。
植民地政策による飢饉と大量死!大英帝国の冷酷な対応
イギリスの植民地支配によって、インドではたびたび大飢饉が発生しました。特に有名なのが、1943年のベンガル飢饉です。この飢饉では、約300万人もの人々が餓死しました。
この悲劇の原因は「食糧不足」ではなく、「イギリスの政策」でした。イギリスはインドで生産された米や小麦を、本国や戦争のために輸出し、インドの人々には回さなかったのです。
当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「インド人は繁殖しすぎだ」と発言し、食糧支援を拒否したことでも知られています。このような対応が、イギリスの植民地政策の冷酷さを物語っています。
イギリスの軍事支配とインド人の犠牲!アムリットサル事件とは?
イギリスはインド人たちが独立を求める動きを厳しく取り締まりました。その中でも最も有名なのが、1919年の「アムリットサル事件」です。
この事件は、インドのパンジャーブ地方アムリットサルで起こりました。イギリスに対する抗議集会が開かれていたところ、イギリス軍は突然発砲し、約400人が殺され、1000人以上が負傷しました。
この出来事は、インドの人々に大きな衝撃を与え、独立運動をさらに活発化させるきっかけになりました。ガンディーは「非暴力・不服従運動」を本格的に展開し、インドの人々の独立への思いはより強くなったのです。
イギリスの「分割統治政策」とインド・パキスタン分離独立の悲劇
イギリスはインドを統治するために、民族や宗教の対立を利用しました。特に、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒を対立させる「分割統治政策」をとりました。イギリスは「お互いに争っている方が、イギリスに反抗しない」と考えていたのです。
その結果、インドが1947年に独立する際、ヒンドゥー教徒の多い「インド」と、イスラム教徒の多い「パキスタン」に分かれることになりました。しかし、この分離は急いで決められたため、大混乱を引き起こしました。
独立後の混乱で100万人以上が亡くなり、約1500万人が難民になったといわれています。これはイギリスが長年、分裂を煽ってきた結果であり、イギリスの「分割統治政策」の負の遺産ともいえるでしょう。
イギリスの植民地支配は本当に「よかった」のか?
イギリスの植民地支配については、「インドに鉄道を作った」「英語を広めた」「近代化に貢献した」といった意見もあります。しかし、それは本当にインドのためだったのでしょうか?
確かにイギリスは鉄道や法律、教育制度を作りましたが、それらはイギリスの支配をしやすくするためのものでした。インドの人々の利益よりも、イギリスが富を得ることが最優先されていたのです。
また、インドの発展はイギリスの植民地支配がなかったとしても、独自に進んでいた可能性があります。つまり、イギリスが支配したことで、インドが発展したのではなく、むしろインドの発展を大きく妨げたと言えるのです。
総括:イギリスのインド植民地をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. イギリスがインドを植民地にした理由と経緯
- 大航海時代(16世紀):ヨーロッパ各国が新しい土地を求めて海外進出。イギリスもインドの香辛料や綿布を求めて貿易を開始。
- 東インド会社の設立(1600年):最初は貿易目的だったが、軍事力を持ち、植民地支配を開始。
- プラッシーの戦い(1757年):イギリス東インド会社がベンガル地方を支配し、インド支配の基盤を築く。
- 統治方法:
- 直接統治:イギリスが総督を送り、直接統治した地域。
- 間接統治:インドの王(マハラジャ)を利用しながら実質的にイギリスが支配。
- 分割統治:ヒンドゥー教徒とイスラム教徒を対立させ、インド人同士の争いを煽る政策。
- インド大反乱(1857年):イギリス支配に反発したインド兵が反乱を起こすが鎮圧され、東インド会社からイギリス本国の直接統治へ移行。
- インフラ整備:鉄道や学校が作られたが、主にイギリスの支配と利益のためだった。
2. イギリスのインド支配が「ひどい」と言われる理由
- インド経済の破壊:
- 伝統的な綿布産業が破壊され、インド製品に高い関税がかけられた。
- 農民は食糧生産をやめさせられ、イギリス向けの作物(綿花・紅茶)を作らされた。
- 度重なる飢饉:
- 1943年ベンガル飢饉では約300万人が餓死。
- 食糧不足ではなく、イギリスがインドの穀物を輸出したことが原因。
- 当時のイギリス首相チャーチルはインドの支援を拒否。
- 軍事支配と虐殺:
- アムリットサル事件(1919年):イギリス軍が抗議集会に発砲し、約400人が死亡。
- インド・パキスタン分離独立の混乱(1947年):
- ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を煽った結果、独立時に100万人以上が死亡、1500万人が難民に。
3. イギリスの支配は本当に「よかった」のか?
- 肯定的な意見:鉄道、教育制度、英語の普及など。
- 実際の影響:これらはイギリスの利益のために導入され、インドの発展を妨げた側面が大きい。
- 結論:イギリスの統治は「インドのため」ではなく、「イギリスの利益のため」であり、インドの発展を大きく阻害した。