今日は江戸幕府の10代将軍徳川家治(とくがわ いえはる)について、みなさんが気になる「死因」や「最後の様子」を分かりやすく解説していきます!

家治は50歳という年齢で亡くなりましたが、実は彼の死にはいろいろな説があるんです。「病気で亡くなった?」「誰かに毒をもられた?」そんな噂もあります。

さらに、家治の死後、日本の政治は大きく変わってしまいました。

なぜ家治は命を落としたのか?最後の瞬間、どんな様子だったのか?歴史の授業にも出てくる将軍の秘密を、詳しく見ていきましょう!

徳川家治の死因は?50歳で亡くなった理由と真相

徳川家治の死因には「病死説」と「暗殺説」の2つがあります。

病気で亡くなったというのが一般的ですが、彼の死後に政治の勢力争いが起こったことで、「もしかすると、殺されたのでは?」という噂も流れました。

それでは、家治の死因について詳しく見ていきましょう。

徳川家治の死因は脚気?急性心不全との関係

家治の死因として最も有力なのは「脚気(かっけ)」による急性心不全です。脚気とはビタミンB1不足によって起こる病気で、当時の日本ではとても多かった病気です。

特に将軍のような身分の高い人たちは、白米ばかり食べていました。白米はおいしいですが、栄養がかたよっていて、ビタミンB1が不足しがちです。そのため、家治も脚気になりやすい食生活を送っていたと考えられています。

脚気が進行すると、手足のしびれやむくみ、心臓の働きが悪くなることがあります。家治も亡くなる1か月前から体調を崩し、水腫(すいしゅ)という体に水がたまる症状が出ていたそうです。

これが悪化し、最終的には急性心不全を引き起こしてしまったと考えられています。

田沼意次による暗殺説は本当か?毒殺の可能性を検証

家治の死には「田沼意次(たぬま おきつぐ)による毒殺説」もあります。田沼意次は家治がとても信頼していた政治家でしたが、その人気の高さから敵も多くいました。

家治が亡くなる10日前、田沼が推薦した2人の町医者が家治に薬を処方しました。すると薬を飲んだ直後から家治の体調が急激に悪化したため、「田沼が毒を盛ったのでは?」という噂が広がったのです。

しかし、歴史学者の多くは「田沼が家治を毒殺するメリットがない」と考えています。家治が生きている間は田沼の地位は安定していましたが、家治が亡くなると田沼は失脚してしまいました。

そのため、「田沼が毒を盛った」という説は信ぴょう性が低いと言えます。

徳川家治はどのように亡くなった?最後の様子を時系列で解説

家治の最後の1か月の様子を詳しく見てみましょう。

日付出来事備考
天明6年(1786年)8月初旬家治の体調が悪化し、足がむくむ(脚気の症状)。
8月16日田沼意次の推薦した町医者が家治に薬を処方。田沼意次による政治的影響が疑われる。
8月17日〜24日体調がさらに悪化し、ほとんど動けなくなる。病状の悪化が急速に進む。
8月25日家治、江戸城で息を引き取る(享年50歳)。家治の死は政治的に重要な転換点。
9月8日将軍が亡くなったことが公表される。発表が遅れたのは政治的な思惑が絡んでいた可能性がある。

家治の死はすぐに発表されず、政治的な思惑が絡んでいた可能性があります。

徳川家治の死後に起こった政変とは?田沼意次の失脚と松平定信の台頭

家治が亡くなると、すぐに政治の大きな変化が起こりました。

それまで権力を握っていた田沼意次でしたが、家治の死の後に「悪政を行っていた」という批判が強まり、老中(今でいう総理大臣のような立場)を辞めさせられました 。

その後、新たに松平定信(まつだいら さだのぶ)という人物が政治を握り、「寛政の改革」と呼ばれる改革を行いました。

田沼の時代とはまったく違う政策が行われ、日本の政治は大きく変わることになったのです。

歴代将軍の死因と比較!なぜ家治は脚気で亡くなったのか?

江戸時代の将軍は病気で亡くなる人が多かったですが、特に脚気で亡くなった将軍が多いことが分かっています。

例えば…

  • 13代将軍・家定(いえさだ)脚気による急性心不全で亡くなった。
  • 14代将軍・家茂(いえもち)脚気が原因で病死

つまり、家治だけが特別だったわけではなく、将軍家の食事(白米中心)に問題があったと考えられます。また、当時は「ビタミンB1」という栄養の存在が分かっていなかったため、原因が分からず対策ができなかったのです。

徳川家治の死因の後に:晩年と最後の様子

徳川家治は幼いころは聡明な将軍候補でしたが、将軍になってからは政治よりも趣味に没頭したことで知られています。また、妻との関係や家族のことも、彼の人生を理解するうえで重要なポイントです。

では、家治の晩年の様子を詳しく見ていきましょう!

徳川家治は晩年どう過ごした?趣味に没頭した日々

家治は 将棋・囲碁・鷹狩・書画 などの趣味をこよなく愛していました。

特に将棋は七段の実力を持ち、プロ並みに強かったと言われています。また、詰将棋を作るのが得意で、多くの作品を残しました。また、絵を描くことも好きで、 狩野派(かのうは)の画家に学びながら、自らも筆を取ることがありました。

政治を田沼意次に任せ、自分は趣味を楽しんでいたため、

「やる気のない将軍」
「田沼任せの凡庸な将軍」
と評価されることもあります。

しかし、家治の時代は比較的平和な時代だったため、「趣味に没頭できる余裕があった」とも言えるでしょう。

徳川家治の正室・倫子との関係は?夫婦仲は良かった?

家治の正室は倫子(ともこ)という女性でした。彼女は天皇の孫であり、高貴な血筋の持ち主です。将軍の正室は、政治的な目的で迎えられることが多く、「愛情のない政略結婚」になりがちでした。

しかし、家治と倫子の関係は例外的に良好だったと言われています。実際に2人の間には2人の娘(千代姫・万寿姫)が生まれたことからも、家治が倫子を大切にしていたことが分かります。

しかし、千代姫は生まれてすぐに亡くなり、万寿姫も12歳で夭折(ようせつ・若くして亡くなること)してしまいました。子どもを失った家治は大きな悲しみに包まれ、その影響で体調を崩したとも言われています。

さらに、倫子自身も34歳の若さで病死してしまい、家治は大きな喪失感を抱えたまま晩年を過ごすことになったのです。

徳川家治の側室と子供たち—跡継ぎに恵まれなかった将軍

家治には2人の側室がいました。

  • お知保(ちほ)の方 …家基(いえもと)を産む
  • 品(しな)の方 …貞次郎を産む

しかし、どちらの子供も若くして亡くなってしまいました。特に、家基は18歳で急死してしまい、本来なら11代将軍になるはずだったと言われています。後継者を失った家治は大きなショックを受けたそうです。これが体調の悪化を早めた可能性もあります。

家治の死後、家斉(いえなり)という一橋家(将軍家の親戚)出身の人物が11代将軍となりました。その家斉は40人以上の側室を持ち、50人以上の子供を作ったことで有名です。

「家治が跡継ぎに恵まれなかったことを反省し、家斉にたくさんの子供を作らせた」
という説もあるほどです。

徳川家治の死後、政治はどう変わった?寛政の改革の始まり

家治が亡くなると、 田沼意次が失脚 し、新たに 松平定信(まつだいら さだのぶ) が権力を握りました。
松平定信は 「寛政の改革」 という 厳しい引き締め政策 を行い、贅沢を禁止し、農村を立て直そうとしました。

しかし、あまりにも厳しすぎたため、庶民からは 「生活が苦しくなった」 という不満が出ました。
結果的に、田沼意次の時代とは まったく違う政治 になったのです。

家治の死は、江戸幕府の 政治の流れを大きく変えるきっかけ になったとも言えます。

徳川家治の墓所はどこ?寛永寺に眠る将軍の最後

家治の墓は、東京都台東区にある 「寛永寺(かんえいじ)」 にあります。

実は、徳川将軍家には 2つの菩提寺(ぼだいじ・先祖を祀るお寺) があります。

  • 増上寺(ぞうじょうじ) →徳川家康などが眠る
  • 寛永寺(かんえいじ) →家治や家斉などが眠る

将軍の埋葬先は 交互に決められていた ため、家治は 寛永寺に埋葬された のです。

寛永寺には、他にも 徳川吉宗・徳川家定・徳川家茂 などの墓もあり、江戸幕府の歴史を感じられる場所になっています。

総括:徳川家治の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 徳川家治の死因は「脚気」による急性心不全 とされている。
    • 当時の食生活(白米中心)が原因で、ビタミンB1不足により発症。
    • 亡くなる1か月前から水腫(体に水がたまる症状)が悪化。
  • 「田沼意次による毒殺説」もあるが、信ぴょう性は低い
    • 亡くなる10日前、田沼意次が推薦した医者が薬を処方。
    • その後、家治の体調が急激に悪化したため「毒殺の可能性」が噂される。
    • しかし、田沼にとって家治の死は不利益なため、毒殺説の可能性は低い。
  • 家治の最期の1か月(時系列)
    • 8月初旬:脚気の症状が悪化し、足のむくみが発生。
    • 8月16日:田沼意次が推薦した町医者が薬を処方。
    • 8月17日〜24日:病状が急速に悪化し、ほとんど動けなくなる。
    • 8月25日:江戸城で息を引き取る(享年50歳)。
    • 9月8日:家治の死が公表される(政治的な思惑が絡んでいた可能性)。
  • 家治の死後、政治は大きく変化
    • 田沼意次が「悪政の象徴」とされ、失脚。
    • 松平定信が権力を握り、「寛政の改革」を開始。
    • 江戸幕府の政治方針が大きく変わる転換点となった。
  • 家治の晩年は「趣味に没頭」していた
    • 将棋・囲碁・書画・鷹狩などを楽しむ。
    • 将棋は「七段」の実力があり、詰将棋の作品も多く残す。
    • 政治は田沼意次に任せていたため「やる気のない将軍」との評価も。
  • 家治の家族関係と後継者問題
    • 正室・倫子 との夫婦仲は良かったが、娘2人(千代姫・万寿姫)は夭折。
    • 側室・お知保の方 との間に生まれた 家基 も18歳で急死(幻の11代将軍)。
    • 跡継ぎがいなくなり、一橋家から 徳川家斉 を養子に迎える。
    • 家斉は「跡継ぎ不足を補うため」40人以上の側室を持ち、50人以上の子供を作る。
  • 家治の墓所は東京都台東区の「寛永寺」
    • 徳川将軍家は「増上寺」と「寛永寺」に交互に埋葬されるルール。
    • 家治の他、吉宗・家定・家茂なども寛永寺に眠る。