今日は「山本五十六の指がないのはなぜ?」という疑問に、ズバリお答えしていきます。

「山本五十六は指がないって本当?」
「どうして指を失ったの?」
「そのあと軍人を続けられたの?」

こんなふうに思って検索してきた人も多いでしょう。この記事では、そんな疑問に“子どもにも分かるように”やさしく解説します!

さあ、山本五十六の本当の姿を一緒に見ていきましょう!

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山本五十六は指がない?実際に失った理由とその背景

山本五十六にまつわる「指がない」という噂は本当なのか?ここでは、実際に指を失った理由やその背景について、塾長が分かりやすく解説していきます!

山本五十六は指がない?左手の人差し指と中指を失っていた

まず最初に、結論からお伝えしますね。

山本五十六は、左手の人差し指と中指の2本を失っています。

ただし「指がない=全部の指がない」という意味ではありません。左手の一部だけなんです。このケガは、1905年の日露戦争中、日本とロシアの海軍が戦った「日本海海戦」でのこと。

彼が乗っていた「日進(にっしん)」という船で、敵の砲弾が爆発。大きな爆風に巻き込まれた山本は、左手の指がもげて、皮一枚でぶら下がっているような状態だったといいます。

本人も「気づいたら指がぶらさがっていた」と語っていて、そのリアルな体験が記録にも残されています。ですから、「山本五十六は指がない」というのは一部正しく、一部間違い。正確には「左手の指が2本ない」ということになりますね。

指を失ったのはいつ?日本海海戦での負傷

では、山本五十六が指を失ったのはいつなのか?それは1905年(明治38年)5月27日、日本海海戦のときです。

この戦いは、日本海軍がロシアの「バルチック艦隊」を相手に大勝利をおさめた歴史的な戦い。当時、21歳だった山本は「少尉候補生」として巡洋艦「日進」に乗っていました。

戦闘中、「日進」は敵から11発も砲弾を受ける大きなダメージを受けました。その中の1発が艦首の大砲に命中し、その爆発の衝撃で、山本の指が吹き飛びました。さらに、左太ももにも大ケガを負う重傷だったそうです。

それでも彼は助かり、その後も軍人としての人生を歩み続けるのです。この戦いでの経験が、山本の「戦争に対する考え方」にも大きな影響を与えたとも言われています。

指を失っても軍人として昇進できた理由

さて、普通なら「指を2本も失ったら軍人はムリ」と思ってしまいますよね?
ところが、山本五十六はその後も順調に出世して、ついには連合艦隊の司令長官にまでなったのです。

なぜそんなことができたのか?理由は、海軍が「頭の良さ」「リーダーとしての能力」をとても大切にしていたからです。

もちろん、ケガや障がいがあることで不利になることもありました。でも、山本五十六はとても優秀で、アメリカにも留学していて、英語も話せるし、世界の情勢にも詳しい。そんな人物を「指がないから」と言って外すわけにはいかなかったんですね。

むしろ、命がけで戦った証として「勇敢な軍人」として尊敬され、昇進にもつながったのです。

指のエピソードは人柄を表す象徴にもなっていた

山本五十六の指の話には、実は“人柄”がにじみ出るエピソードもあります。

例えば、彼は宴会のときに「皿回し」をして場を盛り上げたこともありました。「指がないのに、器用にお皿を回して見せるなんてスゴい!」と、みんな感心したそうです。

また、部下との距離をとらず、自分で洗濯や片づけをするような「親しみやすい上司」でもありました。

戦争という厳しい世界で、指を失っても明るく、気さくで、器用で、優しい。
そんな山本の姿に、たくさんの部下たちが「この人についていきたい!」と思ったのです。

指を失ったことは悲しい出来事でしたが、それを乗り越えた彼の姿は、多くの人の心に残ったのですね。

山本五十六の負傷と軍服は今も残っている?

ところで、山本五十六が負傷したときに着ていた軍服は、今も残っているんですよ!

その軍服は、彼の故郷・新潟県長岡市にある「山本五十六記念館」に寄贈されました。実際に見学することもできます。軍服には、当時の戦闘の痕跡や、負傷したときのリアルな状況が伝わってくるような傷が残っていて、歴史を感じられる貴重な資料です。

この記念館には、軍服のほかにも、遺品や資料、写真なども展示されています。「指を失っても負けなかった山本五十六」の姿が、今も多くの人に語りかけているんですね。

山本五十六は指がない?指を失った後の活躍

さてここからは、「指を失った後の山本五十六はどんな活躍をしたのか?」「どんな人柄だったのか?」という部分に迫っていきます。

一部では「ただの軍人」と思われがちですが、実は深い信念を持ち、戦争を止めようと努力した「知性派リーダー」でもあったのです。では見ていきましょう!

何をした人?真珠湾攻撃を指揮した海軍の英雄

山本五十六といえば、一番有名なのはやはり真珠湾攻撃の指揮官としての顔ですね。

1941年12月8日、日本海軍はアメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲しました。この作戦は山本が考えたもので、「緒戦でアメリカに大きな打撃を与え、早期に戦争を終わらせたい」という戦略でした。

この奇襲でアメリカ側の艦船や飛行機に大きな損害を与え、一時的に日本は優位に立ちました。しかし一方で、アメリカを本気にさせてしまう結果にもなりました。

つまり、山本五十六は「戦争を仕掛けた張本人」というイメージもある一方で、「短期で戦争を終わらせたかった」という思いを持った人物だったのです。

非戦主義と対米戦争への葛藤

実は山本五十六は、もともと戦争には反対の立場でした。

アメリカに留学した経験があり、当時の日本とアメリカの国力の差をよく分かっていた山本は、「アメリカとは絶対に戦ってはいけない」と何度も訴えていました。

日独伊三国同盟が結ばれようとしたときも、必死で反対しました。そのため、右翼や軍の過激派から「国賊」と呼ばれ、暗殺されかけたこともあるんです。

しかし、そうした圧力の中で、彼は連合艦隊司令長官に転任させられ、皮肉にも開戦の責任者のような立場になってしまいました。この矛盾の中で、山本は「もう開戦するなら、最初で勝って終わらせよう」と決意を固め、真珠湾攻撃に踏み切ったのです。

指を失っても部下に慕われた山本の人間力

山本五十六が多くの部下に慕われた理由は、彼の人間的な魅力にあります。

たとえば、彼はどんなに偉くなっても、部下に対して横柄な態度をとらず、自分の洗濯や靴磨きも自分で行うような人でした。

また、指を失っていても何でも器用にこなし、宴会ではユーモアも忘れず、笑顔を絶やさない。そんな姿勢が、部下たちにとって「理想の上司」だったのです。

有名な話として、彼は一人ひとりの部下の名前や性格をよく覚えていて、気軽に声をかけたり、悩みを聞いてあげたりしていました。そのため「五十六長官と一緒なら安心だ」と、現場の兵士からも絶大な信頼を集めていたのです。

最期はどうだった?ブーゲンビル島で戦死

そんな山本五十六ですが、彼の人生は戦争の中で突然終わりを迎えます。

1943年4月18日、南太平洋のブーゲンビル島にある前線基地を視察するため、山本は飛行機で移動していました。

ところがその計画は、アメリカ軍に暗号を解読され、待ち伏せ攻撃を受けてしまったのです。山本の乗っていた「一式陸上攻撃機」は撃墜され、彼は死亡。右手には軍刀を握ったまま亡くなっていたと言われています。

この知らせは日本中に大きな衝撃を与え、政府は山本五十六を国葬で送りました。平民として国葬を受けたのは、戦前の日本では山本五十六ただ一人です。

現在も語り継がれる山本五十六の名言と評価

山本五十六といえば、今でも多くの人に語り継がれる名言があります。

中でも有名なのがこちら↓

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、
ほめてやらねば、人は動かじ」

この言葉は、今でもリーダーシップや教育の世界でよく使われています。ただの軍人ではなく、人を育てることを大切にしていたことがよく分かる言葉ですね。

また、指を失ってもなお、笑顔と誠実さを忘れず、人を大事にし、戦争を止めようとした姿勢は、今でも多くの人に尊敬されています。山本五十六は「軍人」であると同時に、「平和の大切さを知る賢者」でもあったのです。

総括:山本五十六は指がない?まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 山本五十六は左手の人差し指と中指の2本を失っていた(すべての指がないわけではない)。
  • 指を失ったのは1905年の日本海海戦で、敵の砲弾の爆発による負傷だった。
  • 負傷しても、海軍では知識やリーダーシップが重視されていたため、昇進に支障はなかった。
  • 宴会で皿回しを披露するなど、指の欠損を感じさせない器用さとユーモアの持ち主だった。
  • 負傷時の軍服は長岡市の山本五十六記念館に展示されており、現在も見学可能。
  • 太平洋戦争初期には真珠湾攻撃を指揮した中心人物として知られる。
  • 本人は対米戦争に反対していたが、軍の方針に従い開戦を指揮する立場に。
  • 部下からの信頼も厚く、親しみやすい人柄で「理想の上司」と呼ばれていた。
  • 1943年にアメリカ軍の待ち伏せ攻撃で戦死。戦前の平民で唯一、国葬を受けた。
  • 「やってみせ…」の名言は今もリーダーシップ論で引用され、多くの人に影響を与えている