「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」
こんな俳句を聞いたことがある人も多いでしょう。
小林一茶(こばやし いっさ)は、江戸時代後期を代表する俳人で、庶民の生活や小さな生き物たちを詠んだ俳句で有名です。
しかし、その生涯は決して穏やかとは言えませんでした。
3歳で母を亡くし、15歳で奉公に出され、50代で家族を次々と失い、最後は体が不自由になりながらも俳句を詠み続けました。そんな波乱万丈の人生を送った一茶は、いったいどのように最期を迎えたのでしょうか?
今回は、小林一茶の死因や晩年の生活、そして子孫について、分かりやすく解説します。
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小林一茶の死因は何だったのか?晩年の病と最期の様子
俳句の世界で大活躍した小林一茶ですが、晩年は病気との戦いでした。さらに、大火事によって家を失うという悲劇にも見舞われました。ここでは、一茶がどのように亡くなったのかを詳しく見ていきます。
小林一茶の死因は「中風(脳卒中)」だった
小林一茶の死因は、「中風(ちゅうふう)」と呼ばれる病気でした。現代でいう「脳卒中(のうそっちゅう)」にあたり、脳の血管が詰まったり破れたりすることで、体がマヒしたり、言葉が話せなくなったりする病気です。
一茶は57歳のときに最初の発作を起こし、その後も繰り返し倒れていました。その影響で右半身が動かしづらくなり、思うように俳句を詠むことができなくなったと言われています。
今の時代なら治療法も進んでいますが、江戸時代には脳卒中を治す方法がなく、一茶も病気が進行していくのを防ぐことはできませんでした。
何歳で死亡した?65歳で土蔵の中で息を引き取る
一茶が亡くなったのは、1828年(文政11年)1月5日でした。亡くなったときの年齢は65歳です。
しかし、一茶の最期はとても悲しいものでした。実は、彼は自分の家で亡くなったわけではなく、「土蔵(どぞう)」という、もともとは物を保管するための倉庫のような場所で亡くなったのです。
なぜそんな場所で生活していたのかというと、前年の1827年に大火事があり、一茶の家が焼けてしまったからです。彼は仕方なく、焼け残った土蔵で生活を続けることになりました。
しかし、その寒さと湿気が体に悪影響を与え、最終的には体調を崩して亡くなってしまいました。
火事の影響と劣悪な住環境が健康を悪化させた
一茶の家があった長野県信濃町は、冬になると雪が多く、とても寒い地域です。家があれば暖を取ることができますが、一茶が暮らしていた土蔵は本来、人が住むための場所ではありませんでした。そのため、とても寒く、湿気も多かったのです。
脳卒中を患っていた一茶にとって、寒さは大敵でした。体が冷えると血液の流れが悪くなり、症状が悪化してしまいます。一茶が亡くなった理由には、火事によって劣悪な住環境になったことも関係しているのです。
最期の時は誰がそばにいたのか?家族との別れ
一茶の最期を看取ったのは、3番目の妻である「ヤヲ」でした。彼女は当時32歳で、一茶との間に子どもを妊娠していました。しかし、一茶は生まれてくる子どもの顔を見ることなく亡くなってしまいました。
また、一茶が亡くなったときには、継母や異母弟の仙六(せんろく)も同じ土蔵で暮らしていました。つまり、一茶は完全にひとりぼっちで亡くなったわけではありません。
しかし、それでも最後の瞬間はとても孤独だったのではないかと考えられています。
「辞世の句」を詠まなかった理由
俳人や詩人の中には、自分が死ぬ直前に「辞世の句(じせいのく)」を詠む人もいます。これは「人生の最後に残す言葉」のようなもので、松尾芭蕉や与謝蕪村も辞世の句を残しています。
しかし、一茶には「辞世の句」とされる俳句がありません。
なぜでしょうか?
理由のひとつは、一茶が最期まで病気で苦しんでいたからです。中風の影響で言葉を話すのも難しくなっていたため、俳句を詠むことができなかったのかもしれません。
もうひとつの理由として、「俳句は日常の中にあるもの」と考えていたことも関係しているかもしれません。一茶にとって、特別な最後の言葉を残すよりも、普段通りの生活の中で俳句を詠み続けることが大切だったのでしょう。
小林一茶の死因の後に:晩年と子孫の現在
小林一茶は、多くの俳句を残しながらも、晩年は決して穏やかなものではありませんでした。家族を次々と失い、遺産相続争いにも巻き込まれ、最後には家まで失いました。しかし、一茶の血筋は現在も受け継がれています。
ここでは、一茶の晩年の苦労と、子孫について詳しく見ていきましょう。
晩年の一茶は家族を次々と失った
小林一茶は、52歳という遅い年齢で結婚しました。最初の妻・菊とは、3男1女を授かりますが、全員が2歳になる前に亡くなってしまいます。
さらに、妻の菊も1823年に体調を崩し、37歳という若さで亡くなりました。この時、一茶はすでに60歳近くになっており、人生の晩年を迎えていました。
その後、一茶は2度再婚しましたが、2番目の妻・雪とはわずか3ヶ月で離婚し、3番目の妻・ヤヲとは64歳の時に結婚しました。しかし、その直後に家が焼け落ちてしまい、苦しい生活を強いられることになりました。
火事で家を失い、土蔵での生活を余儀なくされる
1827年、一茶が住んでいた信濃町・柏原宿で大火災が発生しました。この火事で柏原宿の8割の家が焼失し、一茶の家も例外ではありませんでした。
財産を失い、住む家もなくなった一茶は、焼け残った土蔵で生活を始めます。しかし、土蔵は本来、人が住む場所ではなく、とても寒く、湿気が多い環境でした。
この過酷な住環境のせいで、一茶の健康はさらに悪化していきました。それでも彼は俳句を詠み続け、「やけ土の ほかりほかりや 蚤さはぐ(焼け跡の土がまだ温かい。ノミがはしゃいでいるよ)」といった句を残しています。
どんな状況でもユーモアを忘れない一茶らしい一句ですが、その裏には、家を失った悲しみや、先の見えない不安もあったことでしょう。
死後に生まれた娘「やた」が家を継ぐ
一茶が亡くなったとき、3番目の妻・ヤヲは妊娠していました。そして、一茶の死後の1828年4月に、娘の「やた」が誕生します。
この「やた」が、後に結婚し、子どもをもうけたことで、一茶の血筋は続いていきました。一茶には男子の跡取りがいなかったため、やたの夫が小林家を継ぐ形になりました。
江戸時代は「家」を継ぐことがとても大切な時代でしたが、一茶は自分の死後も血筋が続いたことで、ある意味、安心して旅立ったのかもしれません。
小林一茶の子孫は現在も信濃町にいる?
では、小林一茶の子孫は今どうなっているのでしょうか?
実は、現在でも長野県信濃町には、一茶の子孫が住んでいると言われています。一茶の血筋を受け継ぐ家系は代々続き、現代に至るまでその名を守っているようです。
また、一茶が生まれた信濃町には「一茶記念館」があり、一茶の生涯や俳句に関する資料が展示されています。ここを訪れれば、一茶の生きた時代を感じることができるでしょう。
一茶の俳句は今も愛され続けている
一茶の俳句は、現代でも多くの人々に親しまれています。特に、子どもや小動物をテーマにした句は、温かみがあり、多くの人の心に響きます。
例えば、「名月を とってくれろと 泣く子かな」という俳句は、満月を取ってほしいと願う子どもの純粋な気持ちを詠んだものです。
また、「すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る」という句は、スズメの子がのんびりしているところに馬が通ってくる様子をユーモラスに詠んでいます。
このように、一茶の俳句は親しみやすく、今でも多くの人に愛され続けています。
総括:小林一茶の死因を分かりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 小林一茶の死因は「中風(脳卒中)」
- 57歳で最初の発作を起こし、右半身が不自由になる
- その後も発作を繰り返し、体調が悪化
- 65歳で死亡し、土蔵で最期を迎える
- 1827年の大火災で家を失い、焼け残った土蔵で生活
- 劣悪な住環境の影響で健康がさらに悪化し、1828年1月5日に死去
- 辞世の句を詠まなかった理由
- 病気の影響で言葉を話すのが困難だった
- 一茶にとって俳句は日常の一部であり、特別な最後の言葉を残す必要がなかった
- 晩年は家族を次々と失う
- 最初の妻・菊との間に生まれた4人の子どもは全員幼くして死亡
- その後、菊も37歳で亡くなり、2度の再婚も短命に終わる
- 死後に生まれた娘「やた」が家を継ぐ
- 一茶の死後、妻ヤヲが娘「やた」を出産
- やたが結婚し、一茶の血筋は続いていった
- 現在も子孫が信濃町にいる可能性が高い
- 一茶の子孫は代々続き、現在も信濃町に住んでいるとされる
- 「一茶記念館」で彼の生涯や俳句を学ぶことができる
- 一茶の俳句は今も愛されている
- 「名月を とってくれろと 泣く子かな」など、子どもや小動物をテーマにした句が多い
- そのユーモアや温かみのある作風は、時代を超えて親しまれている
