今回は「憲政の常道(けんせいのじょうどう)」について、子どもでも分かるようにやさしく解説しますよ。難しそうに聞こえますが、ざっくり言うと「選挙で選ばれた政党が、交代で内閣をつくって政治を進めるルール」のことです。
でも、なぜそんなルールができたのか?どんなメリット・デメリットがあったのか?しっかり学べば、今の政治と比べるヒントにもなります。それではさっそく見ていきましょう!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓
憲政の常道とは何かわかりやすく解説!特徴や背景
「憲政の常道」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?これは、1924年から1932年にかけて日本で実現した政党政治のスタイルで、選挙で選ばれた政党が政府を担当するという重要な転換期を表しています。
ここでは、憲政の常道がどうして始まり、どのような特徴を持っていたのかをわかりやすく解説します。
憲政の常道とは何か?政党内閣のルール
「憲政の常道」とは、大正時代の終わりから昭和の初めにかけて、政党が交代で内閣(政府)をつくるという政治の慣習のことです。1924年から1932年の約8年間、このルールが続きました。
簡単に言うと、衆議院の選挙で一番たくさん議席を取った政党(第一党)が総理大臣を出して内閣をつくります。そして、その内閣が失敗して辞めることになったら、次は第二党が政権を担当するという交代ルールです。
この仕組みは「民意(みんい)=国民の声」を政治にしっかりと反映させるために考えられました。今の日本の政治にも通じる、大切な考え方だったんですね。
始まった理由とは?第二次護憲運動がカギ
憲政の常道が始まるきっかけとなったのは、1924年の「第二次護憲運動(だいにじごけんうんどう)」です。これは、「政党を無視した内閣なんてダメだ!」と国民や政党が声をあげた運動です。
当時の首相・清浦奎吾(きようらけいご)は、政党の力をまったく使わず、貴族院出身の仲間だけで内閣をつくってしまいました。これに対して、「護憲三派(ごけんさんぱ)」と呼ばれる3つの政党が手を組んで反対し、選挙で大勝したのです。
その結果、憲政会(けんせいかい)の加藤高明(かとうたかあき)が首相に選ばれ、政党内閣がスタートしました。これが「憲政の常道」のはじまりです。
民意の成長と元老の変化
憲政の常道が実現した背景には、「国民の力(民意)」と「元老(げんろう)と呼ばれるお年寄り政治家たちの考え方の変化」がありました。
明治時代までは、元老が「次の首相はこの人にしよう」と決めていました。でも大正時代に入ると、選挙で選ばれた国民の代表が「もっと政治に参加したい!」と声を上げるようになります。これが「大正デモクラシー」と呼ばれる動きです。
元老の数も減ってきて、最後に残った西園寺公望(さいおんじきんもち)という人物が、「これからは政党に任せたほうがいい」と考えるようになりました。こうして、政党内閣が実現していったのです。
憲政の常道の特徴とは?交代制と民意反映の仕組み
憲政の常道の一番の特徴は、「選挙で選ばれた政党が、交代で内閣をつくること」です。このようにすることで、失敗した政権はすぐに交代でき、国民の意見が反映されやすくなります。
具体的には、政党が政策を出して、国民が選挙でどの政党を応援するか決めます。一番票を集めた政党が内閣をつくり、政治を行うのです。そして失敗したら、次に人気のあった政党が交代で政権を取ります。
この交代制によって、政党は「失敗できないぞ!」と一生けんめいに政策を考えるようになり、政治が良くなると考えられました。
憲政の常道の流れを年表で整理
憲政の常道の流れをざっくり年表で見てみましょう。どんな内閣がどんな理由で交代したのかもポイントです!
- 1924年:加藤高明内閣(憲政会)がスタート
- 1926年:若槻礼次郎内閣(憲政会)→金融恐慌の失敗で辞任
- 1927年:田中義一内閣(立憲政友会)→張作霖事件で辞任
- 1929年:浜口雄幸内閣(立憲民政党)→暗殺未遂で退任
- 1931年:若槻礼次郎(再登板)→満州事変の対応で辞任
- 1931年:犬養毅内閣(立憲政友会)→五・一五事件で暗殺
このように、政党が交代で内閣を担当していたことが分かります。ただし、最後の犬養毅が暗殺されたことで、憲政の常道は終わりを迎えてしまいました。
憲政の常道を分かりやすく:メリット・デメリット
ここからは、「憲政の常道」の仕組みがどんなよい点・悪い点を持っていたのか、そしてどうして終わってしまったのかを詳しく見ていきます。歴史から学ぶことはたくさんありますので、最後までじっくり読みましょう!
メリットとは?民意が反映された政治の実現
憲政の常道の一番のメリットは、「国民の意見=民意(みんい)」が政治にしっかりと反映されるようになったことです。
それまでの日本では、元老や軍人など、選挙で選ばれていない人たちが政治の中心にいました。しかし、憲政の常道が始まると、選挙で選ばれた政党のリーダーが首相になり、政治を進めるようになったのです。
また、政党が失敗すれば別の政党が政権を担当する「交代制」によって、よりよい政策が生まれるようになりました。政党同士が競い合うことで、国民のためになる政治が進むようになったのです。
デメリットとは?少数政党の影響力や腐敗の問題
一方で、憲政の常道にも弱点がありました。まず、政党が議席の過半数を持っていないと、他の政党と協力しなければなりません。そのため、少数の政党でも大きな力を持ってしまうことがありました。
また、政党同士で「大臣の席」や「予算の分け前」をめぐって争うことがあり、政党政治が「利権争い」に変わってしまうこともありました。こうなると、国民のためではなく、自分たちの利益を優先するような政治になってしまいます。
つまり、理想的な制度ではあるものの、うまく運営されなければ、逆に政治が混乱してしまうこともあったのです。
なぜ崩壊した?五・一五事件と軍部の台頭を解説
憲政の常道が終わるきっかけとなったのが、1932年に起きた「五・一五事件(ご・いちごじけん)」です。この事件では、首相だった犬養毅が、海軍の青年将校たちに暗殺されてしまいました。
この暗殺によって、「選挙で選ばれた政党の首相が政治をする」という流れが壊れてしまったのです。次に首相になったのは、政党ではなく海軍出身の斎藤実(さいとうまこと)という人物でした。
この事件以降、軍の力がどんどん強くなり、日本は「軍国主義(ぐんこくしゅぎ)」という戦争を重んじる政治に向かっていきました。こうして、憲政の常道はたった8年で終わってしまったのです。
最後の政党内閣の意味
犬養毅(いぬかいつよし)は、憲政の常道の最後を担った首相であり、「話せば分かる」という言葉で有名な人物です。
彼は、国民の声を大切にし、戦争を避けるために軍ともしっかり話し合おうとしていました。ところが、その「話し合いの精神」も通じず、暗殺されてしまいます。
犬養首相の死は、「政治は言葉と選挙で決めるべきだ」という大切な価値を失った瞬間でもありました。だからこそ、憲政の常道は、犬養毅と深く結びついた歴史の教訓なのです。
政の常道と現在の日本政治の違い
現在の日本では、「日本国憲法」によって総理大臣は国会で選ばれます。衆議院選挙で多数をとった政党のリーダーが首相になるのは、憲政の常道と似ていますね。
でも、当時とちがうのは、昔は「慣習(かんしゅう)」だったのに対し、今は「憲法(けんぽう)」という法律でしっかり決められているということです。また、現在の日本では複数の政党が存在していますが、かならずしも「二大政党制」ではありません。連立政権が多いのも、憲政の常道との違いです。
それでも、「民意を政治に反映させる」という考え方は、今も昔も変わらず大切なものです。憲政の常道から、今の民主主義を学び取ることができますね。
総括:憲政の常道とは何かわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 憲政の常道とは:選挙で選ばれた政党が、交代で内閣(政府)をつくる仕組み。
- 始まった理由:1924年、清浦内閣に対抗した第二次護憲運動がきっかけ。
- 社会の背景:民意が強まり、元老の影響が弱まったことで政党政治が実現。
- 特徴:二大政党が交代で政権を担当。民意が政治に反映されやすい仕組み。
- 年表の流れ:加藤高明から犬養毅までの政党内閣が交代しながら続いた。
- メリット:国民の意見が政治に反映され、政党が競い合って良い政治を目指した。
- デメリット:少数政党が大きな影響力を持つことや、政党の利権争いが起きた。
- 終わりのきっかけ:1932年の五・一五事件で犬養毅が暗殺され、政党政治が終了。
- 犬養毅の役割:「話せば分かる」で知られる、憲政の常道最後の首相。
- 今との違い:今は憲法で首相の選び方が決まっており、当時より制度がしっかりしている。
