今日は、幕末の大事件「孝明天皇の死因」について、分かりやすく解説していきます。

孝明天皇は35歳という若さで突然亡くなりました。当時の公式発表では「天然痘」とされていますが、実は「暗殺されたのでは?」という説が根強く残っています。

一体どちらが真実なのでしょうか?

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孝明天皇の病状の変化や、当時の政治の動きを詳しく見ていくと、色々なことが見えてきます。これを読めば、孝明天皇の死の真相に迫ることができるはずです。それでは、一緒に考えてみましょう!

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孝明天皇の死因は天然痘か暗殺か?真相に迫る

孝明天皇の死因は、本当に天然痘だったのでしょうか?それとも、誰かに暗殺されたのでしょうか?ここでは、当時の証言や記録をもとに、天然痘説と暗殺説を比較しながら、詳しく解説していきます。

孝明天皇の死因は天然痘?当時の医師の診断はどうだったのか

孝明天皇は、1866年12月12日頃に体調を崩しました。その後、高熱が出て、医師たちは天然痘と診断しました。当時の記録によると、発熱後すぐに発疹が現れたそうです。

しかし、興味深いのはその後の経過です。21日には「症状が軽い」と診断され、23日には回復の兆しが見え始めました。実際、天皇はこの日、ほぼ普通の食事をとることができたと記録されています。

ところが、24日になると突然病状が悪化し、25日には急死しました。天然痘は徐々に症状が悪くなり、重症になると長期間苦しむ病気です。それなのに、回復していたはずの孝明天皇が、なぜ急に亡くなったのでしょうか?

ここが「暗殺説」が生まれた大きな理由の一つです。

孝明天皇の死因は暗殺?毒殺説がささやかれる理由

孝明天皇の死には、いくつかの不自然な点があります。最大のポイントは「突然の容体の急変」です。

24日の夕方までは回復に向かっていたのに、夜になると下痢と嘔吐を繰り返し、脈が弱くなり、四肢が冷たくなったといいます。そして25日、亡くなる直前に「全身の穴から血が流れ出る」という異常な症状が記録されました。これが「毒を盛られたのでは?」と言われる理由です。

また、当時のイギリス外交官アーネスト・サトウは、自身の日記に「孝明天皇は天然痘で亡くなったと言われているが、数年後にある日本人が『実は毒殺された』と断言した」と書いています。この証言が、暗殺説を強くする要因になりました。

孝明天皇の死で誰が得をしたのか?暗殺の動機を探る

もし本当に孝明天皇が暗殺されたとしたら、一体誰が得をするのでしょうか?ここが大事なポイントです。

孝明天皇は、外国を強く嫌い、「攘夷(外国を追い出すこと)」を唱えていました。しかし、幕府の方針は開国へと進んでおり、薩摩藩や長州藩は幕府を倒そうとしていました。

孝明天皇が生きていれば、幕府の味方になった可能性が高く、薩摩藩や長州藩にとっては邪魔な存在でした。つまり、「孝明天皇が亡くなれば、倒幕がスムーズに進む」と考えた人たちがいたかもしれません。

岩倉具視が黒幕?暗殺を指示したとされる証拠とは

暗殺説でよく名前が挙がるのが、岩倉具視(いわくらともみ)です。岩倉具視は、公家でありながら幕府に批判的な立場をとり、倒幕派と手を組んでいました。

孝明天皇が亡くなると、岩倉具視はすぐに朝廷内で力を持つようになり、薩摩藩や長州藩と協力して幕府を倒す道を作りました。そのため、「岩倉具視が孝明天皇の暗殺を計画したのでは?」と考える人もいるのです。

しかし、岩倉具視自身は孝明天皇の死に驚いていたとも言われており、直接の証拠はありません。もし本当に暗殺を指示したのなら、その証拠はどこにあるのでしょうか?これが今も謎として残っているのです。

徳川慶喜も関与?孝明天皇の死と幕府の対応

孝明天皇は、幕府を支持していたと言われています。しかし、孝明天皇が亡くなると、幕府は一気に弱体化しました。その結果、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は倒幕の流れに対抗できなくなり、大政奉還(幕府の権力を朝廷に返すこと)を決意しました。

このように考えると、「もし孝明天皇が生きていたら、幕府はもっと長く続いていたかもしれない」と言われるのも納得です。

一方で、「孝明天皇が亡くなったことで、徳川慶喜が自由に開国政策を進められた」とする説もあります。どちらが正しいのか、今も議論が続いています。

孝明天皇の死因の後に:最後の様子と歴史に残る影響

孝明天皇が亡くなった当時、日本は大きく変わろうとしていました。

ここでは、孝明天皇がどのような最期を迎えたのか、そしてその死が日本史にどんな影響を与えたのかを詳しく解説していきます。

孝明天皇の最後の様子は?発病から死去までの流れ

孝明天皇は、1866年12月12日頃に発熱し、天然痘と診断されました。最初は症状が悪化していましたが、21日には「軽症」とされ、23日には食欲も回復していたと言われています。ところが、24日の夕方から突然容体が急変しました。

夜になると激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脈が弱まり、体が冷たくなっていきました。そして、25日には「御九穴より御脱血(全身の穴から血が流れた)」という異常な状態で亡くなったのです。

この急変ぶりは、天然痘の通常の症状とは異なります。そのため、「毒を盛られたのでは?」という疑念が強まったのです。

孝明天皇の死因が公表されるまでの不自然な時間差

孝明天皇が亡くなったのは12月25日でしたが、朝廷はこの事実をすぐには公表しませんでした。公表されたのは4日後の29日でした。

なぜ、4日間も発表を遅らせたのでしょうか?

これについては、いくつかの説があります。

  1. 混乱を避けるため
    孝明天皇の死は、大きな政治的影響を持つ出来事でした。突然の発表による混乱を避けるため、準備が整うまで発表を控えた可能性があります。
  2. 毒殺の痕跡を隠すため
    暗殺説を支持する人々の中には、「毒殺の証拠が見つからないように、時間を稼いだのでは?」と考える人もいます。

どちらが真実なのかは分かりませんが、この「4日間の沈黙」は、不信感を抱かせる原因の一つになっています。

孝明天皇が亡くなった年齢と明治天皇への影響

孝明天皇は、35歳という若さで亡くなりました。そして、彼の跡を継いだのは、わずか14歳の明治天皇でした。

明治天皇はまだ若く、自分で政治を動かすことはできませんでした。そのため、実際の政治は、岩倉具視や西郷隆盛、大久保利通といった「倒幕派のリーダーたち」によって動かされることになりました。

もし孝明天皇がもう少し長く生きていたら、明治維新は違う形になっていたかもしれません。

孝明天皇の死因に関する最新の研究と論争

1990年代に、名城大学の原口清教授が「孝明天皇の容態を記録した資料(御容態書)」を詳細に分析しました。その結果、「孝明天皇は天然痘による病死だった可能性が高い」と発表しました。

この研究によると、孝明天皇は発熱し、発疹が現れ、次第に症状が悪化していたとのことです。そして、出血を伴う症状は、天然痘の重症型(出血性膿疱性痘瘡)で見られることがあるため、毒殺とは言い切れないとしています。

しかし、暗殺説を支持する研究者も多く、「天然痘で死亡したとするには、容体の急変が不自然すぎる」と反論しています。つまり、孝明天皇の死因については、まだ決着がついていないのです。

孝明天皇の死が日本史に与えた影響とは

孝明天皇が亡くなったことで、日本の歴史は大きく変わりました。

  1. 倒幕運動が加速した
    孝明天皇が生きていた間は、倒幕派も慎重に動いていました。しかし、彼が亡くなったことで、倒幕の動きが一気に進みました。
  2. 明治維新の流れが決定的になった
    孝明天皇の死後、若い明治天皇が即位し、倒幕派が政治の主導権を握るようになりました。そして、わずか2年後の1868年に「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府は終わりを迎えました。
  3. 日本の開国がスムーズに進んだ
    孝明天皇は攘夷(外国を追い払うこと)を主張していましたが、明治天皇の時代になると、開国政策が本格的に進められました。

このように、孝明天皇の死は、単なる「一人の天皇の死」ではなく、日本の歴史を大きく変える出来事だったのです。

総括:孝明天皇の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 孝明天皇の死因は天然痘と発表されたが、暗殺説も根強い。
  • 天然痘説の根拠
    • 1866年12月12日頃に発熱し、医師団が天然痘と診断。
    • 21日には「軽症」とされ、23日には食事ができるほど回復。
    • しかし、24日夜に突然悪化し、25日に急死。
  • 暗殺説の根拠
    • 24日夜から急に下痢や嘔吐、体の冷えが始まり、全身の穴から出血した。
    • イギリス外交官アーネスト・サトウが「毒殺された」と記録。
    • 毒殺の黒幕として、岩倉具視や倒幕派(薩摩・長州)の関与が疑われる。
  • 暗殺説の動機
    • 孝明天皇は幕府を支持し、攘夷(外国排除)を唱えていた。
    • 倒幕派にとっては邪魔な存在だった可能性がある。
  • 孝明天皇の死の影響
    • 倒幕運動が加速し、幕府は弱体化。
    • 1867年、大政奉還により幕府が終焉。
    • 開国政策が進み、明治維新の流れが決定的になった。
  • 最新の研究では
    • 名城大学の原口清教授の研究では、天然痘の重症型による死亡の可能性が高いとされる。
    • ただし、暗殺説を支持する研究者もおり、決着はついていない。