今回は「小村寿太郎(こむらじゅたろう)がしたこと」について、分かりやすく解説していきますよ。

日本の歴史で「不平等条約の改正」や「関税自主権の回復」などを聞いたことはありますか?それを実現したすごい人こそ、小村寿太郎です。

でも、「そもそもどんな人?」「何をしたの?」と気になる人も多いはず。この記事では、小村寿太郎の代表的な功績と、その人物像までまとめていきます。

特に社会のテストに出やすい「関税自主権の回復」や「日英同盟」などもくわしく紹介しますので、しっかりチェックしておきましょう!

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小村寿太郎がしたこととは?外交で成し遂げた偉大な功績

小村寿太郎は、明治時代の日本で「外交(がいこう)」という仕事をしていた人物です。外交というのは、外国との話し合いや交渉をする大切な役割のこと。小村寿太郎は、この外交の分野で日本を強くし、世界に認めさせた立役者だったのです。

ここでは、小村寿太郎がどんなことをしたのか、5つのポイントに分けて詳しく見ていきましょう。

関税自主権の回復に成功した外交官

まず最も大きな功績は、「関税自主権(かんぜいじしゅけん)」の回復です。これは、日本が外国から輸入する品物に、どれくらいの税金をかけるかを自分で決められる権利のことです。

昔、日本は外国と結んだ不平等な条約のせいで、この関税を勝手に決められませんでした。でも、小村寿太郎は1911年にアメリカなどと交渉をして、ついにこの権利を取り戻すことに成功したのです。

これは、50年以上も日本が求め続けてきた「不平等条約の改正」の中でも、最後の大きな課題でした。小村寿太郎は、長い時間をかけて各国と交渉し、日本がもう「列強」と並ぶ国であることを証明しました。

日英同盟の締結で国際的地位を高めた

次に紹介するのは「日英同盟(にちえいどうめい)」を結んだことです。これは日本とイギリスが協力して、アジアの平和を守ろうと約束した条約です。1902年に結ばれ、日本の国際的な地位がぐっと上がりました。

当時、日本はロシアという大国からの脅威(きょうい)におびえていました。小村寿太郎は、「イギリスと同盟を結べば、ロシアに対して有利になる」と考え、交渉を進めたのです。

この同盟があったからこそ、日本は安心して国づくりや外交を進めることができました。そしてのちの日露戦争でも、大きな支えになりました。

ポーツマス条約の全権として日露戦争を終結

1904年に始まった日露戦争。この戦争を終わらせるための講和会議が、アメリカのポーツマスで行われました。そこに日本代表として参加したのが、小村寿太郎です。

小村寿太郎は、日本にとってなるべく有利な条件で戦争を終わらせようと、強気の交渉をくり返しました。相手のロシアはなかなか譲らず、会議は難航しましたが、小村さんの粘り強さと冷静な判断力で、なんとか講和条約をまとめることができました。

これが「ポーツマス条約(じょうやく)」です。この条約で、日本はロシアとの戦争に勝利したと世界から評価され、国際的な立場をさらに強くしたのです。

韓国併合や日露協約を通じた日本の勢力拡大

小村寿太郎は、朝鮮半島での外交にも大きく関わっていました。特に、1910年におこなわれた「韓国併合(かんこくへいごう)」では、日本政府を代表して交渉を進めた中心人物の一人です。

また、1907年と1910年には「日露協約(にちろきょうやく)」を結び、日本とロシアがアジアでぶつからないように、話し合いを行いました。これによって、日本は朝鮮や満州(まんしゅう)での影響力を強めることができたのです。

小村寿太郎の交渉力によって、日本は大国と対等に話し合える存在になり、アジアでの立場も大きく変わっていきました。

条約改正で「列強の仲間入り」した日本を実現

関税自主権の回復や治外法権の撤廃を通じて、日本はついに「列強(れっきょう)」と呼ばれる強い国々の仲間入りを果たします。この「条約改正」は、小村寿太郎が成し遂げた最も誇るべき成果のひとつです。

条約改正には長い時間とたくさんの困難がありました。でも、小村寿太郎は国の未来を考え、あきらめずに交渉を続けました。そして、欧米の国々に「日本は近代国家としてふさわしい国だ」と認めさせたのです。

この功績によって、日本は堂々と世界の中で発言できるようになりました。まさに、小村寿太郎は「近代外交の父」とも言える存在なのです。

小村寿太郎がしたことまとめ:生涯と功績

小村寿太郎がどんな外交成果をあげたのかは、すでにご紹介しましたね。ここからは、「どんな人生を歩んだ人なのか」「どんな性格で、どうしてそんなにすごい交渉ができたのか」について、塾長がわかりやすくお話しします。

歴史の教科書ではなかなか触れられない、人物の背景や性格も知ることで、より深く理解できますよ!

小村寿太郎の生い立ち|貧しい藩士からハーバード留学へ

小村寿太郎は、1855年に今の宮崎県日南市、当時の飫肥藩(おびはん)で生まれました。お父さんは武士でしたが、下級武士だったため家はとても貧しかったのです。

そんな中でも小村寿太郎は勉強が大好きで、藩の学校「振徳堂(しんとくどう)」に通い、いつも成績はトップクラス。その才能が認められ、東京の大学南校(のちの東京大学)に進学し、さらには明治政府の留学生としてアメリカのハーバード大学へ!

ハーバード大学では法律を学び、日本に帰国した後は、外交官としての道を歩み始めました。苦労の中でも努力を続けた、その姿勢がのちの大きな成果につながっていったのです。

外交官としてのキャリア|外務次官・公使・外相までの歩み

帰国後、小村寿太郎はまず司法省に入り、裁判官として働きます。その後、英語力や法律の知識を買われて外務省に移動し、外交官として本格的に活躍していきます。

最初は清(中国)やアメリカ、ロシアなどに「公使」として派遣され、現地での交渉や情報収集に取り組みました。そして、1901年には日本の外務大臣に就任。外交のトップとして、日英同盟やポーツマス条約などの大きな交渉をまとめあげました。

その後も2回目の外務大臣に選ばれ、条約改正や韓国併合といった、日本の将来を左右するような重要な仕事を任されました。

外交スタイルと思想|「誠」と実力で勝ち取った信頼

小村寿太郎は、見た目は小柄で目立つタイプではありませんでした。でも、とても誠実で、まじめに物事に取り組む人だったと言われています。口ぐせは「誠を尽くせば道は開ける」

また、人前で話すのが苦手で、パーティーなどの社交の場にもあまり顔を出さなかったそうです。そのかわり、夜遅くまで読書や勉強を続け、相手の国の歴史や文化まで調べて交渉にのぞみました。

まさに「知識」と「誠実さ」で世界の大国とわたりあったのです。だからこそ、外国の交渉相手からも「信頼できる人物」として高く評価されました。

晩年と死去|関税自主権回復後に静かに退いた最期

1911年、長年の夢であった「関税自主権の回復」を実現した後、小村寿太郎は体調を崩してしまいます。多くの外交交渉を一人で担ってきたため、心身ともに疲れがたまっていたのかもしれません。

同じ年の11月、小村さんはわずか57歳という若さで亡くなります。自分の健康よりも、国家の未来を大切にした人生でした。まさに「日本のために尽くした一生」だったといえるでしょう。

彼の死を、日本中の人々が悼み、「ありがとう、小村さん」と感謝の気持ちを伝えたそうです。

小村寿太郎の評価と現在の影響|「近代外交の父」と称される理由

小村寿太郎は、今でも「近代日本外交の父」と呼ばれるほど高く評価されています。教科書にも必ず出てくる「関税自主権の回復」や「ポーツマス条約」「日英同盟」は、すべて小村寿太郎が中心となって成し遂げたことです。

特に社会科のテストでは、「1911年に関税自主権を回復した人物は誰?」といった問題がよく出されます。このときの外務大臣こそ、小村寿太郎です。

日本が外国と対等に話せる国になったのは、小村寿太郎のような人がいたからこそ。今でも日本の外交政策に影響を与え続ける偉人です。

総括:小村寿太郎したことまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 関税自主権を回復(1911年)
     → 不平等条約を完全に改正し、日本の税制度の主権を取り戻した。
  • 日英同盟を締結(1902年)
     → ロシアに対抗するため、イギリスと同盟を結んで日本の国際的地位を高めた。
  • ポーツマス条約を締結(1905年)
     → 日露戦争の講和を主導し、日本に有利な条件で戦争を終わらせた。
  • 韓国併合と日露協約を実現
     → 日本の勢力を朝鮮や満州に広げ、アジアでの立場を強化した。
  • 条約改正で日本を「列強」へと押し上げた
     → 日本が世界に認められる近代国家になった背景をつくった。
  • 貧しい武士の子からハーバード大学に留学
     → 努力と勉強でチャンスをつかみ、日本を動かす外交官になった。
  • 誠実さと知識で信頼される外交スタイル
     → 社交より勉強を優先し、冷静で粘り強い交渉で成果を上げた。
  • 57歳で死去、晩年は静かに引退
     → 偉業を成し遂げた後、健康を崩して引退し、感謝されて生涯を終えた。
  • 今でも「近代外交の父」として高く評価されている
     → 教科書にも必ず登場する、日本の外交の礎を築いた人物。