今日は満州事変がひどいと言われる理由を分かりやすく解説します。
関東軍が独断で暴走し、日本政府や国際社会、そして現地住民にどんな大きな影響を与えたのか、具体的な理由を5つに分けてお話しします。これからの授業で、歴史の大切な教訓を一緒に学んでいきましょう。
さあ、続きを読んで、歴史の真実に迫りましょう!
満州事変が「ひどい」と言われる5つの理由

「満州事変(まんしゅうじへん)」について、とくに「なぜひどいと言われているのか」に焦点を当てて、分かりやすくお話ししていきます。
学校の教科書では「1931年に関東軍が満州を占領した事件」と説明されているかもしれませんが、その背景にはたくさんの問題やウソ、国際社会とのトラブルがありました。
特に注目したいのは、日本の軍隊が政府の言うことを聞かずに勝手に動いたこと、つまり「暴走した」ことです。この事件は、日本が戦争への道を進んでいく第一歩になりました。
関東軍が日本政府の命令を無視して暴走した
満州事変が起きたきっかけは、1931年9月18日、関東軍が満州の鉄道(柳条湖)を自作自演で爆破したことです。「中国軍がやった」とウソをついて攻撃を始めました。
当時の日本政府は「これ以上戦いを広げるな!」という「不拡大方針(ふかくだいほうしん)」を出しましたが、関東軍はそれを無視して、どんどん戦線を広げていきました。
本来、軍隊は国の命令に従って行動するはずです。しかしこのとき、現場の軍人たちが勝手に行動し、日本政府もそれを止められなかったのです。これは「統制(とうせい)がとれていない状態」と言えます。
この事件以降、軍の力がどんどん強くなり、政治の力が弱くなるという、こわい流れが始まりました。
リットン調査団が明かした満州事変の謀略性
満州事変の真実を調べるため、国際連盟から「リットン調査団(ちょうさだん)」というグループが日本と中国に派遣されました。この調査団は、1932年に現地の人々からたくさんの手紙や証言を受け取りました。
その結果、「鉄道爆破事件(柳条湖事件)」は、関東軍が戦争を始めるために仕組んだ謀略(ぼうりゃく)だと結論づけられたのです。つまり、はじめから戦争をするつもりだったということです。
日本は「自衛のための行動だ」と言っていましたが、リットン調査団の報告によって、世界中から「それはウソだ!」と非難されました。戦争を始めるためにウソをついたというのは、とても重大な問題です。この事実が「満州事変=ひどい事件」と言われる大きな理由のひとつです。
国際連盟脱退で日本が世界から孤立した
リットン報告書が出されたあと、国際連盟では日本に対して「満州から撤退しなさい」という勧告(かんこく)が出されました。42か国中41か国が日本の行動を問題だと考え、支持したのです。
しかし、日本はこの勧告を受け入れず、「満州国は正当な独立国家だ」と主張して、1933年に国際連盟から脱退してしまいました。
これは、世界との約束を破り、国際社会から自ら離れるという大きな決断でした。この行動によって、日本はますます孤立し、ドイツやイタリアなどといったファシズム国家と近づいていくことになります。
外交的な孤立が日本をさらに危険な方向へと進めてしまったのです。
現地住民の声を無視し「傀儡国家・満州国」を建てた
関東軍は戦争によって満州を占領した後、1932年に「満州国(まんしゅうこく)」という国を建てました。清の最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)をリーダーに据えて、あたかも独立した国のように見せかけました。
しかし、実際にはすべての政治や軍の動きを日本がコントロールしていたのです。つまり、「傀儡国家(かいらいこっか)」、操り人形のような国でした。
リットン調査団の報告では、「満州の95%以上の住民は、この新しい国に賛成していない」と記されています。また、中国の若者たちは手紙や資料を送って、真実を世界に伝えようとしました。
住民の意見を無視して、強引に国をつくったことも、「ひどい」と言われる大きな理由です。
日本国内でも政治が軍に屈服し暗黒時代が始まった
満州事変が起きた当初、政府は戦争を広げないよう努力していましたが、関東軍はそれに従わず、結果として政府の言うことが通らなくなりました。
その後、1932年には犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺される「五・一五事件」が発生し、政党政治が終わりを迎えます。これをきっかけに、軍の力がますます強くなり、国の方向を決めるのも軍人たちになっていきました。
この時代から「軍国主義(ぐんこくしゅぎ)」の流れが強まり、日本は自由な言論や政治よりも、「戦争に勝つこと」が最優先されるようになってしまいました。
満州事変は、こうした暗い時代の始まりを告げる事件だったのです。
満州事変はひどい!深刻な影響と世界に残した負の遺産

満州事変は「始まり」であり、同時に「引き金」となった事件でした。関東軍の暴走によって始まったこの出来事は、国内外に大きな影響を与え、日本を戦争へと突き進ませる原因となりました。
ここからは、「満州事変の影響」について、5つのポイントに分けて分かりやすく解説します。日本だけでなく、中国、そして世界の歴史にどんな爪痕を残したのか、ぜひ理解を深めてください。
日中関係が決定的に悪化し、15年戦争のきっかけに
満州事変は、日本と中国の関係を一気に悪化させました。事件のあと、日本は満州を完全に占領し、さらに中国本土にも侵略の手を広げていきます。
1937年には盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起こり、日中戦争が始まります。そして1941年にはアメリカとの戦争(太平洋戦争)へと発展しました。
この一連の流れは、満州事変から始まった「15年戦争(じゅうごねんせんそう)」と呼ばれています。つまり、あの1つの事件が、日本の敗戦にまでつながる長い戦争の始まりだったのです。
世論とメディアが軍を支持し戦争を後押しした
当時の日本では、新聞やラジオなどのメディアが、関東軍の行動を「英雄的だ!」と大きく取り上げていました。多くの国民もそれを信じ、「日本は正しいことをしている」と思い込んでいました。
政府に反対するような記事や声はほとんど表に出ず、軍の行動を疑うこと自体が「非国民」とされる空気が広がっていきました。
このように、メディアが真実を伝えず、むしろ戦争を後押ししたことも、日本が深みにハマっていく一因となりました。
中国人にとっての「九・一八事変」と抗日意識の高まり
中国では、満州事変のことを「九・一八事変(きゅういちはちじへん)」と呼び、とても重要な出来事とされています。
この事件によって、多くの中国人が「これは侵略だ!」と感じ、抗日運動(こうにちうんどう)を始めました。農民や学生、知識人たちが団結し、日本に抵抗するための動きを強めていったのです。
中国人の国としての意識や、民族の誇りが大きく高まったのも、この事件がきっかけでした。つまり、満州事変は中国側から見ても「ひどい事件」であり、今でも記憶に残るほどの大事件なのです。
関東軍の行動がナチスやファシズムと連携する流れに
満州事変によって国際連盟を脱退した日本は、外交の場から孤立してしまいました。世界からの信頼を失った日本は、やがてナチス・ドイツやイタリアのようなファシズム国家と近づくようになります。
その結果、1936年には日独防共協定、1940年には日独伊三国同盟が結ばれました。日本は「枢軸国(すうじくこく)」の一員となり、アメリカやイギリスなどの連合国と対立することになっていきます。
このように、日本が国際社会からはずれていった原因のひとつも、満州事変にあったのです。
満州事変を教訓に「軍の暴走を止める仕組み」が議論されるように
満州事変の反省から、戦後の日本では「軍が勝手に動いてはいけない」という考え方がとても重視されるようになりました。
そこで生まれたのが「文民統制(ぶんみんとうせい)」というしくみです。これは、軍の最高責任者は選挙で選ばれた文民(ぶんみん)、つまり政治家がつとめるというルールです。
このルールがあることで、軍隊が勝手に戦争を始めることを防ぎ、平和を守ろうという仕組みができました。現代の日本でも、この文民統制はしっかりと守られています。
つまり、満州事変の「ひどさ」があったからこそ、二度と同じ失敗を繰り返さないようにする教訓が生まれたのです。
総括:満州事変がひどいと言われる理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 関東軍が政府の命令を無視して勝手に戦争を始めた
- 柳条湖事件は自作自演だった。
- 日本政府の「不拡大方針」を無視して侵略を進めた。
- 国際連盟の調査で「侵略だ」と断罪された
- リットン調査団が「日本の行動は自衛ではない」と報告。
- 世界中から非難され、信頼を失った。
- 国際連盟を脱退して世界から孤立した
- 満州国の正当性を主張し、勧告を拒否。
- 孤立化し、ドイツ・イタリアと連携する流れへ。
- 現地の中国人の声を無視して満州国を建国
- 溥儀をかついだ傀儡国家だった。
- 満州の95%の住民は反対していた。
- 日本国内でも軍の力が強くなり、政治が崩壊
- 五・一五事件で首相が暗殺され、政党政治が終焉。
- 軍国主義の暗黒時代が始まった。
- 中国では「九・一八事変」として抗日運動のきっかけに
- 中国人の民族意識が高まり、抵抗運動が活発化。
- 戦後は「文民統制」の大切さが認識されるようになった
- 満州事変の反省から、軍の暴走を防ぐしくみがつくられた。