今回は「張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)」がなぜ起きたのか、当時の流れや原因を、子どもにもわかる言葉でやさしく解説していきます。
この事件は日本と中国、そして世界の未来を大きく変えるきっかけになった出来事です。
「どうしてそんなことが起きたの?」
「誰がやったの?」「どんな意味があったの?」
という疑問を一つずつ、すっきりと解き明かしていきますよ。
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張作霖爆殺事件はなぜ起きたのか?背景と原因
ここでは、「張作霖爆殺事件」がなぜ起きたのか、その背景や原因を順を追って見ていきます。事件の発端や関係者の動き、日本の思惑まで、分かりやすく解説します。
事件が起きた理由は「関東軍の独断」
張作霖爆殺事件が起きたのは、1928年のことです。この事件を引き起こしたのは、日本の「関東軍(かんとうぐん)」という部隊でした。でも、ここが大事なポイント。なんとこの作戦は、日本の政府にも、天皇にも相談されていなかったのです。
関東軍は、中国東北部(満州)に駐留していた日本の軍隊です。この地域での日本の影響力を守るために、勝手に動いていたのです。彼らは、「このままでは日本が不利になる」と考えて、なんと独断で、張作霖という中国の軍のトップを爆破してしまいました。
つまり、政府の命令ではなく、軍の一部が勝手にやった「テロ行為」だったのです。この出来事は後の日本軍の暴走のはじまりにもなっていきます。
張作霖はなぜ関東軍にとって「邪魔な存在」になったのか
では、なぜ張作霖は暗殺されるほど「邪魔」な存在になったのでしょうか?
実は、もともと張作霖は日本と仲が良く、日本も彼を支援していました。張作霖は中国の「満州(まんしゅう)」という地域を支配していた軍のトップで、日本は彼を応援することで、自分たちの権益(けんえき)を守っていたのです。
ところが、時代が進むにつれて、張作霖は日本よりもアメリカやイギリスなど、他の国々と仲良くしはじめました。しかも、日本が運営していた鉄道に対抗するような計画まで進めていました。
こうした行動が、関東軍にとっては「裏切り」と感じられ、次第に張作霖は「もう利用できない存在」「むしろじゃまな人物」だと思われるようになっていったのです。
なぜ満州を支配したかった?「日本の生命線」と呼ばれた理由
なぜ日本はここまで満州にこだわったのでしょうか?その理由は、満州が「日本の生命線」と呼ばれるほど、重要な場所だったからです。
まず、満州には鉄や石炭といった大事な資源がたくさんあります。当時の日本は資源が少なく、工業や軍事を強くするためには、どうしても満州の資源が必要でした。
また、日露戦争で日本が勝ったことで、ロシアから満州南部の鉄道や土地を引き継いでいたため、「ここは自分たちが守るべき場所だ」という意識が強かったのです。だからこそ、日本は満州の支配を強めたいと考え、張作霖がじゃまだと感じるようになったのです。
張作霖爆殺事件の計画と実行
1928年6月4日、張作霖は北京から満州の奉天(いまの瀋陽)に帰る列車に乗っていました。その途中、列車が「柳条湖(りゅうじょうこ)」という場所に差しかかった時、線路の下に仕掛けられていた爆弾が爆発し、列車が吹き飛びました。
張作霖は大けがをして、その数時間後に亡くなりました。この事件を実行したのは、関東軍の中の参謀・河本大作(こうもと だいさく)という人物でした。
彼は、張作霖を国民党軍が殺したように見せかけて、中国の混乱に乗じ、日本が満州を支配しやすくしようと考えていたのです。しかし、結果はその思惑通りにはいきませんでした。
なぜ「国家の方針」ではなかったのか?天皇と政府の対応
張作霖を暗殺した事件は、日本の政府の命令ではありませんでした。天皇にも相談されておらず、関東軍が勝手に計画したものだったのです。このことを知った昭和天皇は大激怒します。当時の首相だった田中義一(たなか ぎいち)は、天皇に「きちんと犯人を罰します」と約束しました。
しかし、関東軍や陸軍は内部の人間を守ろうとして、河本大作たちをきちんと処罰しようとしませんでした。結局、天皇は「話が違う」として田中首相を見放し、田中内閣は総辞職に追い込まれました。
このように、国家の命令を無視して行動する軍の存在が、今後の日本に大きな影を落とすことになります。
張作霖爆殺事件はなぜ起きた?影響と世界の反応
ここでは、「なぜ」張作霖爆殺事件が起きたのかを中心に見てきました。ここからは、事件が起きたことで中国や日本、そして世界がどう変わっていったのかを、流れにそってお話ししていきます。
この事件は、一人の人物の死だけでは終わらず、日本と中国の歴史を大きく動かす転換点にもなりましたよ。
張作霖の死後:中国はどう変わった?
張作霖が亡くなったあと、息子の張学良(ちょうがくりょう)が満州の支配を引き継ぎました。張学良はすぐに「犯人は日本の関東軍だ」と気づき、大きな怒りを覚えます。父親を殺されたのですから、当然のことですね。
そして張学良は日本に反発し、なんとそれまで対立していた蒋介石(しょうかいせき)率いる「国民党」と手を組みました。これにより、国民党は中国の東北地方(満州)にも影響を持つようになり、中国の統一がぐっと進むことになります。
つまり、関東軍が張作霖を排除したことで、かえって日本にとっては不利な状況を作ってしまったのです。
日本国内の反応:天皇激怒・田中義一の総辞職
事件の報告が日本に届くと、昭和天皇は激しく怒りました。
「軍が勝手に人を暗殺するなんて、ありえない!」というわけです。
当時の首相だった田中義一は、「犯人を厳しく処罰します」と約束しましたが、陸軍内部の強い抵抗で、実際には何もできませんでした。「これでは国の信用がなくなる」と感じた天皇は、「もう君の言うことは信用できない」と田中首相に伝えます。
その結果、田中義一は内閣を辞めざるを得なくなりました。この事件は、日本の政治と軍の関係がすでにおかしくなっていたことを、はっきりと示した出来事でした。
「満州事変」や「日中戦争」へのつながり
この事件が引き金となって、後に「満州事変(まんしゅうじへん)」や「日中戦争」が起こっていくことになります。関東軍は、張作霖を暗殺しても満州をすぐに支配できず、むしろ反発を受けてしまいました。しかし彼らはあきらめませんでした。
「もう一度、満州を日本のものにしよう」と、1931年には柳条湖事件をきっかけに「満州事変」を起こし、強引に満州を占領します。
そしてそこから日本は、中国全土との戦争に突入していくのです。この張作霖爆殺事件が、「軍の暴走」のはじまりだったことは、歴史の流れから見ても明らかです。
国際社会の反応は?日本の孤立と信頼失墜の始まり
張作霖爆殺事件は、最初のうちは日本政府が「国民党軍の仕業だ」と発表していたため、国際的には本当のことは知られていませんでした。しかし、時間がたつと関東軍の犯行だったことが明らかになり、世界の国々は「日本は信頼できない国だ」と思うようになります。
このころ、日本は「国際連盟(こくさいれんめい)」という世界の国々が協力するための組織に入っていましたが、のちに満州事変の責任を問われて、脱退することになります。
張作霖爆殺事件は、日本の外交の信用を失わせる最初のステップになってしまったのです。
張作霖爆殺事件の歴史的な意味
この事件は、ただの暗殺事件ではありません。
「軍が政府の命令を無視して行動した」「それを止められなかった」という事実は、当時の日本がどれほど危うい状況だったかを示しています。
また、この事件をきっかけに、軍の力がどんどん強くなり、国の方針を決めるようになってしまいました。つまり、日本が戦争へと向かう大きな分かれ道だったのです。
歴史の教科書や入試にもよく出てくるのは、この事件が日本の「軍国主義」や「政治の崩れ」のスタート地点だったからです。だからこそ、私たちはこの事件の意味をしっかり理解しておく必要があるのです。
総括:張作霖爆殺事件はなぜ起きたかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 張作霖爆殺事件は1928年に起きた
→ 日本の関東軍が中国軍閥の張作霖を列車ごと爆殺した事件。 - 事件は日本政府や天皇の命令ではなかった
→ 関東軍が勝手に実行した、いわば「軍の暴走」。 - 張作霖はもともと親日的だったが、次第に欧米寄りに転じた
→ 関東軍にとって「もはや利用できない存在」になった。 - 満州は日本にとって経済・軍事的に重要な「生命線」だった
→ 鉄や石炭などの資源が豊富で、国の発展に不可欠だった。 - 爆破は関東軍の河本大作が計画・実行した
→ 国民党の仕業に見せかけ、日本の満州支配を強める狙い。 - 天皇は激怒し、首相・田中義一は辞任に追い込まれた
→ 政治が軍をコントロールできなくなっていた。 - 事件後、張作霖の息子・張学良が国民党と手を組んだ
→ 中国の統一が進み、日本にとっては逆効果に。 - 事件は「満州事変」や「日中戦争」へのきっかけになった
→ 軍の暴走が止まらなくなり、戦争への道が開かれる。 - 国際社会から日本は信頼を失い、孤立していった
→ 満州事変後には国際連盟を脱退することに。 - 張作霖爆殺事件は、日本の軍国主義の始まりを象徴する重要な事件
→ 教科書でも取り上げられ、戦争への分岐点とされている。