今日は「毛沢東(もうたくとう)ってどうやって亡くなったの?」というテーマを一緒に学びましょう。
歴史の教科書でもよく出てくる毛沢東は、中国の「建国の父」としてとても有名な人物です。でも、その最期にはいろいろな病気や噂があり、ちょっと複雑なんです。さらに、彼の遺体は今でも中国に保管されているって知っていましたか?
この記事では、毛沢東の死因と晩年の様子、そして「遺体は本当にミイラなのか?」という疑問に塾長がズバッとお答えします!
毛沢東の死因とは?晩年の病状と最期の様子

毛沢東は1976年にこの世を去りましたが、その原因は「老衰」だけではありません。複数の重い病気をかかえていて、最後はほとんど寝たきりの生活だったのです。では、彼の晩年はどのようなものだったのでしょうか?
ここからは、彼の病気や最後の様子を順番に見ていきましょう。
毛沢東の死因は何?正式な病名と死の直前の状態
毛沢東の死因は、一言でいうと「多臓器不全」です。ただし、そこに至るまでにいくつもの持病がありました。代表的なのが「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」という神経の病気です。この病気になると、手足や体の筋肉がだんだん動かなくなっていきます。
さらに、彼はヘビースモーカーだったため「気管支炎」や「肺炎」も悪化。そして高齢による「心臓病」も抱えていました。これらの病気が重なって、最終的には呼吸や心臓の働きが弱まり、亡くなったのです。
亡くなる前の毛沢東は、話すのもやっとという状態で、酸素吸入器をつけながら寝たきりの生活を送っていました。病名を一つに決めるのは難しいのですが、「複合的な持病による衰弱死」と考えるのが一番近いですね。
どんな晩年を過ごしていたのか?病床からの指導と孤独な老後
晩年の毛沢東は、まさに「孤独な独裁者」でした。文化大革命の中で自分に反対する人物を次々と排除し、信頼できる人がどんどんいなくなっていったのです。
そんな中でも、毛沢東は病床から政治の指示を出し続けていました。とくに「四人組」と呼ばれるグループを重用して、政敵の鄧小平(とうしょうへい)などを批判させたりしていました。
でも、病状が悪化するにつれて、まわりの人たちも「本当に毛沢東の言葉なのか?」と疑問を持つようになります。彼の判断力や意識がはっきりしない中で、周囲の人間関係もどんどん冷たくなり、最後は政治的にも精神的にも孤立していったのです。
最期の瞬間:死去当日の記録と周囲の反応
毛沢東が亡くなったのは1976年9月9日の未明、時間にして午前0時10分ごろとされています。彼の死は「国家的な大事件」として、すぐに全国に発表されました。
その日、中国全土は深い悲しみに包まれ、多くの人が泣き崩れたといわれています。しかし、実際のところ、彼の死を冷静に受け止める人も少なくありませんでした。文化大革命の混乱で苦しんでいた人たちは、「これでようやく時代が変わる」と感じていたのです。
彼の亡骸はそのまま北京の「毛主席紀念堂」に運ばれ、防腐処理(後述)されたのちに一般公開されました。
死後:四人組の逮捕と政治の転換点
毛沢東の死後、すぐに中国では大きな政治的変化が起こりました。彼の側近だった「四人組」(江青、張春橋、姚文元、王洪文)は、毛の死からわずか1か月後に逮捕されました。
これは、毛沢東がつくった政治体制を終わらせる大きな一歩でした。そして、以前失脚していた鄧小平が復活し、そこから中国は「改革開放」の時代へと向かっていきます。
つまり、毛沢東の死は「ひとつの時代の終わり」だったと同時に、「新しい時代の始まり」でもあったのです。
陰謀論や噂は?中国で囁かれた都市伝説の真相
毛沢東ほどの大人物が亡くなると、やっぱり出てくるのが「陰謀論」です。たとえば、「実は暗殺されたのでは?」とか、「薬で殺された」なんていう噂もあります。
しかし、実際にはそういった証拠は一切ありません。彼の主治医や周囲の記録から見ても、病気が原因で亡くなったと考えるのが妥当です。
また、「亡くなったのはもっと早かったけど、発表を遅らせた」という説もありますが、これも確実な証拠はなく、あくまで噂の域を出ません。毛沢東の死に関しては、複雑な背景があるだけに、いろいろな話が出てくるのも無理はありませんね。
毛沢東の死因の後に:遺体はミイラ?毛主席紀念堂での保存方法

毛沢東が亡くなったあと、その遺体は火葬されずに「毛主席紀念堂(もうしゅせききねんどう)」という建物に安置されました。
では、その遺体はいわゆる「ミイラ」なのでしょうか?また、今でも見学できるのか?――いろいろと気になる疑問について、順番に解説していきましょう。
遺体はミイラか?エンバーミング処理による保存実態を解説
毛沢東の遺体は、「ミイラ」ではありません。正しくは「エンバーミング」という方法で保存されています。
エンバーミングとは、亡くなった人の体から血液を抜き、防腐剤を注入して腐敗を防ぐ処理のことです。日本語では「遺体衛生保全」とも呼ばれます。古代エジプトのミイラづくりとは違って、見た目はとても自然なまま。触れられないけど、まるで眠っているように見えるのが特徴です。
毛沢東のエンバーミングは、当時のソ連から技術を学んだとされています。実は、ソ連のレーニンも同じように遺体が保存されていて、その方法を中国が参考にしたとも言われています。
毛主席紀念堂とは?遺体が安置されている場所とその意味
毛主席紀念堂は、北京の天安門広場にあります。1976年に毛沢東が亡くなったあと、その1周年となる1977年に完成しました。中国政府が「毛沢東の象徴的な存在」を国民に見せるために建てた建物です。
この建物の中には、ガラスのような水晶の棺が置かれていて、その中に毛沢東の遺体が安置されています。しかも、特別な冷却・遮光設備で管理されていて、腐敗しないように工夫されているのです。
現在でも一般公開されていて、誰でも見学することができます。ただし、持ち物検査が厳しく、カメラやスマホでの撮影は絶対に禁止です。
遺体は本物?蝋人形説や地下保存説の真偽を検証
「毛沢東の遺体は実は蝋人形(ろうにんぎょう)なんじゃないの?」という噂を聞いたことがある人もいるかもしれません。これは中国国内でも有名な都市伝説です。
ある説では、「本物の遺体は紀念堂の地下に隠されていて、展示されているのは精巧な偽物だ」とも言われています。しかし、これらの話には証拠がなく、あくまで噂の域を出ません。
また、毛沢東の主治医だった李志綏(り・しすい)も、「保存されているのは本人の遺体」と証言しています。ですから、基本的には本物の遺体が保存されていると考えていいでしょう。
希望したのは火葬だった?遺言と異なる国家の決断とは
意外かもしれませんが、毛沢東は「自分の遺体は焼いて、海に撒いて魚のエサにしてくれ」と話していたそうです。これは、彼がマルクス主義の「唯物論者(ゆいぶつろんしゃ)」だったことと関係しています。
唯物論とは、霊や魂といった目に見えないものを信じず、科学で説明できることだけを大事にする考え方です。だからこそ、自分が死んだあとは「形を残すな」と考えたわけです。
でも、実際には国の方針で「永久保存」されました。これは、国民の団結を保つため、毛沢東を「象徴」として残す必要があると判断されたからです。つまり、彼の遺志よりも、政治的な意味合いが優先されたのですね。
他のエンバーミングされた指導者たちと比較
毛沢東のように遺体を保存された指導者は、世界にほかにもいます。有名なのはソ連のレーニン、ベトナムのホー・チ・ミン、北朝鮮の金日成や金正日などです。
これらの指導者の共通点は、みな社会主義・共産主義の国で、「国の父」として崇拝されていること。そして、エンバーミングによって遺体が公開され、国民の忠誠心を保つために利用されているということです。
ただし、毛沢東と違って、ホー・チ・ミンは火葬を希望していたのに保存されたという点でも似ています。「個人の願いよりも、国家の象徴としての価値」が重視されているわけですね。
総括:毛沢東の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 毛沢東の死因は「多臓器不全」で、ALSや心臓病、肺炎など複数の持病が重なって亡くなった。
- 晩年の毛沢東は政治的に孤立し、寝たきりの状態でも病床から指導を続けていた。
- 死亡時刻は1976年9月9日午前0時10分ごろで、中国全土に深い影響を与えた。
- 死後まもなく四人組が逮捕され、中国は鄧小平による「改革開放」へと舵を切った。
- 陰謀論もあるが、死因は病気による衰弱死が最も有力とされている。
- 毛沢東の遺体は火葬されず、エンバーミング処理(防腐処理)によって保存されている。
- 毛主席紀念堂に遺体が安置されており、今も一般公開されている(見学は可能、撮影禁止)。
- 遺体が蝋人形ではないかという噂もあるが、証拠はなく本物とされている。
- 本人は火葬を希望していたが、国家の判断で永久保存された。
- 遺体を保存された他国の指導者(レーニン、ホー・チ・ミンなど)と共通点が多い。