今回は「松岡洋右(まつおかようすけ)」という歴史上の人物について解説します。特に「どうして亡くなったのか(死因)」に注目して、分かりやすく解説していきます。
また、最後に残した辞世の句や、どんな最期だったのかも一緒に見ていきましょう。子どもたちにも分かるように、やさしい言葉で説明するので、安心して読んでくださいね。
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松岡洋右の死因は何?最期の様子や辞世の句
松岡洋右は、日本の外交官として重要な役割を果たし、戦争の進行にも大きく関与した人物です。彼の死因については諸説あり、最期の瞬間はどのようなものだったのかに関心を持つ人も多いでしょう。
ここでは、松岡洋右の死因や辞世の句、そして彼の最期の様子を詳しく解説します。
松岡洋右の死因は病死だった|東大病院で66歳で亡くなる
松岡洋右の死因は「病死」でした。1946年6月27日、東京都内にある東京大学病院で亡くなりました。年齢は66歳でした。
戦後、松岡洋右は第二次世界大戦での日本の戦争責任を問われて、「A級戦犯」としてアメリカ軍に逮捕されていました。そのため、当時は東京の巣鴨プリズン(刑務所)に収容されていたのです。
しかし体調がとても悪くなり、まずはアメリカ軍の病院に入院していました。そして、最後には東大病院に転院することが認められ、そこで静かに息を引き取りました。派手な事件や事故ではなく、病気が原因の自然な死だったのです。
病名は結核?ガン?多臓器不全?諸説を紹介
松岡洋右の死因については、正確な病名がはっきりと一つに決まっているわけではありません。ですが、いくつかの説が存在しています。
一つ目の説は「肺結核」です。これは昔の日本でよく流行していた病気で、呼吸が苦しくなったり、長く咳が止まらなくなったりするものです。もう一つは「肝臓の病気(肝硬変など)」だったという説です。戦争や政治のストレス、食生活の乱れなどが関係していたのではないかと考えられています。
また、最近の文献などでは「多臓器不全(いろいろな臓器が一度に悪くなる病気)」の可能性もあるとされています。はっきりと一つに決まっていないのは、当時の医療の限界もあったためです。
どの説にせよ、体がだんだん弱っていって、最後には病気に勝てなかったのだと思われます。
辞世の句「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉」
松岡洋右は、亡くなる前に辞世の句(じせいのく)を残しました。それがこちらです。
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」
とても静かで落ち着いた言葉ですよね。この句は、「もう悔いもないし、誰かを恨む気持ちもない。ただ静かに死の世界(黄泉)へ向かっていくよ」という意味になります。
戦争や政治でたくさんの苦労をしてきた松岡洋右ですが、最期にはそうした感情をすべて捨てて、穏やかな気持ちで旅立ったことがわかります。この句からは、どんなに波乱の人生を歩んでも、人は最後には静かに人生を終えるんだということが伝わってきますね。
A級戦犯指定中に死亡|裁判での判決はどうなった?
松岡洋右は、第二次世界大戦が終わった後、「A級戦犯」として逮捕されました。A級戦犯というのは、戦争を始めた責任があるとされる人物のことです。
そのため、東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)で裁かれる予定でした。けれども、裁判の途中で病気が重くなってしまい、ついには判決を受ける前に亡くなってしまったのです。
つまり、松岡洋右には「有罪」や「無罪」といった判決が下されることはありませんでした。亡くなったことで、裁判から外されるかたちになったのです。
そのため、今でも「松岡洋右が本当に戦争にどれだけ責任があったのか」は、歴史の中でも議論が分かれる部分になっています。
晩年の様子と入院先|駐留軍からの移送の理由
松岡洋右は逮捕された後、まずは「巣鴨プリズン」という場所に収容されていました。そこはアメリカを中心とした連合国軍が管理していた刑務所です。ですが、しばらくして体調が急に悪化しました。そのためアメリカ軍の病院に移され、治療を受けることになります。
それでも病気は良くならなかったため、最終的には東京大学病院に転院が許されました。これは、松岡の病状があまりにも深刻で、命に関わるレベルだったためです。
当時のアメリカ軍は、病気で苦しむ戦犯たちにもある程度の人道的な対応をしていました。だからこそ、松岡も大学病院での静かな最期を迎えることができたのです。
松岡洋右の死因の後に:何をした人?経歴と功績
ここからは、松岡洋右という人物がどんなことをしてきたのか、つまり「何をした人なのか」について見ていきましょう。外交官や政治家として活躍した彼の経歴はとてもユニークで、日本の歴史にも大きな影響を与えました。
「国際連盟脱退」を主導した外交官|なぜ脱退に至ったのか
松岡洋右といえば、一番有名なできごとは「国際連盟(こくさいれんめい)からの脱退」です。国際連盟とは、世界の国々が平和のために協力し合うために作られた組織で、今の国際連合(国連)のもとになる存在です。
1933年、松岡はその国際連盟の会議に出席し、日本の満洲国(まんしゅうこく)設立を正当化するために熱弁をふるいました。しかし、他の国々からの非難が強く、日本の立場はどんどん苦しくなっていきました。
最終的に、日本は連盟の意見に反発し、松岡が退場してしまったことで「日本はもう国際連盟をやめます」と正式に脱退を表明しました。この行動は当時の日本では大きな話題となり、松岡は「国を守ったヒーロー」として多くの人に支持されました。
日独伊三国同盟を締結|その背景と意図を解説
次に、松岡洋右が大きく関わったのが「日独伊三国同盟(にちどくい・さんごくどうめい)」です。これは日本・ドイツ・イタリアの3つの国が、軍事や外交で協力し合うことを決めた同盟でした。
1940年、松岡は日本の外務大臣(がいむだいじん)としてこの同盟を強くすすめました。当時、世界では第二次世界大戦が始まっており、松岡は「強い国どうしが手を組むことで日本の立場が有利になる」と考えていたのです。
しかしこの同盟によって、日本はドイツやイタリアと深く結びつくことになり、結果的にアメリカなどとも敵対することになります。つまり、戦争がより大きくなるきっかけにもなってしまったのです。
日ソ中立条約を結んだ理由とは?外交手腕の評価
松岡洋右はまた、1941年に「日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)」という重要な取り決めをソビエト連邦と結びました。
この条約は「おたがいに戦争をしないようにしよう」という約束です。日本が南のほう(アジアや太平洋)に力を入れようとしていた時期だったので、北のソ連とは争いたくないという思いがあったのです。
松岡はこの条約を成功させるために、自らソ連に出向いて交渉を行いました。そのとき、ソ連のトップだったスターリンとも握手を交わしたことで話題になりました。
外交の場での行動力と交渉力は高く評価される一方で、その後ドイツがソ連に侵攻したときに松岡が「日本もソ連と戦うべきだ」と主張し、政府内で孤立してしまうことになります。
アメリカ留学から満鉄総裁まで|異色のキャリアをたどる
松岡洋右は、実はとても珍しい経歴を持っています。なんと13歳のときにアメリカに渡り、オレゴン州の大学で勉強をしたのです。当時の日本では、海外に行って学ぶ人はほとんどいませんでした。
その後、外交官として中国やアメリカなどで活躍し、南満洲鉄道(なんまんしゅうてつどう)、通称「満鉄(まんてつ)」の理事や総裁にまでのぼりつめました。満鉄は国の政策に関わる重要な会社だったので、松岡の影響力はかなり大きかったのです。
満鉄での経験は、のちの外交や政治活動にも大きく活かされました。「現場を知っている政治家」として、多くの人から期待された人物でした。
なぜ辞任・失脚したのか?北進論と政界での対立を整理
松岡洋右は、外交官としての功績が高かった一方で、国内政治での対立も多く、最終的に失脚しました。その理由の一つは、「北進論」を支持したことにあります。
北進論とは、日本がソ連との戦争に突入し、シベリアを進行するべきだという考え方です。この考えに対して、当時の政府や軍部は反発しました。松岡は、南進論(南方への進出)を強く支持していたにも関わらず、北進論を強調するようになり、これが政府内での対立を引き起こしました。
また、松岡が外相を辞任した後、政治的な影響力を失い、彼の名前は次第に薄れていきました。彼の外交政策には賛否があり、後の歴史で評価が分かれる点も多いです。
総括:松岡洋右の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
松岡洋右の死因や最期
- 松岡洋右の死因は「病死」で、1946年6月27日に東京大学病院で亡くなった(享年66歳)。
- 病名には「肺結核」「肝臓病」「多臓器不全」など複数の説があり、特定はされていない。
- 収容されていた巣鴨プリズンからアメリカ軍病院を経て東大病院に転院し、静かに息を引き取った。
- 辞世の句は「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉」で、穏やかな心情がうかがえる。
- 東京裁判のA級戦犯として起訴されていたが、判決を受ける前に亡くなったため裁判から除外された。
松岡洋右の経歴と功績
- 国際連盟からの脱退を主導し、国内では「国を守ったヒーロー」として支持された。
- 外相として「日独伊三国同盟」を推進し、国際的な軍事同盟の中心人物となった。
- 1941年に「日ソ中立条約」を締結し、ソ連との一時的な平和を実現させた。
- 13歳でアメリカに留学し、オレゴン州の大学を卒業。満鉄の総裁も務めた異色の経歴を持つ。
- 北進論を主張し、政権内で孤立。対立が続いたことで外相を辞任し、政治の表舞台から退いた。