みなさんは「万葉集」って聞いたことがありますか?これは、昔の日本の人たちが詠んだ和歌を集めた本で、日本最古の歌集として知られています。

そして、その中でも特に有名な女性歌人が「額田王(ぬかたのおおきみ)」です。

額田王は、飛鳥時代に活躍した才能あふれる女性で、天智天皇や天武天皇という重要な歴史人物とも深い関わりがありました。彼女の歌には、恋愛や自然、宮廷での暮らしが美しく描かれています。

でも、「額田王ってどんな人?」と聞かれたら、なかなか答えにくいですよね。

今回は、額田王がどんな人だったのか、彼女の人生や和歌の魅力、そして持統天皇との関係について分かりやすく解説していきます!

額田王はどんな人か簡単に:飛鳥時代の天才歌人の生涯

額田王は、日本最古の歌集「万葉集」に和歌を残した宮廷歌人です。彼女の歌は、恋の喜びや切なさを巧みに表現しており、現代でも多くの人に親しまれています。

そんな額田王の人生を詳しく見ていきましょう。

額田王は万葉集を代表する女性歌人だった

額田王は、万葉集に12首の和歌を残しています。

その中でも特に有名なのが以下の歌です。

「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」

これは、彼女が昔の恋人である大海人皇子(おおあまのみこ)に向けて詠んだものとされています。この歌には「紫野(むらさきの)であなたが袖を振るのを、野守(のもり=見張り番の人)が見てしまいますよ!」という意味が込められています。

当時の宮廷では、袖を振ることが「好意を示すサイン」だったため、この歌は「あなたの気持ちは分かるけれど、人目があるからやめて!」という意味とも取れます。

額田王の歌は、ただの恋の詠み物ではありません。彼女の歌には、宮廷での人間関係や時代の雰囲気が色濃く表れています。それが、今でも多くの人に愛される理由の一つなのです。

額田王の出自とは?父・鏡王との関係

額田王の父親は「鏡王(かがみのおおきみ)」とされています。ただ、彼がどのような人物だったのかは、詳しくは分かっていません。しかし、「王(おおきみ)」という名前がついていることから、天皇家の血を引く貴族だった可能性が高いと考えられています。

また、額田王が生まれた場所についても、奈良県や滋賀県、島根県など、いくつかの説があります。どれが正しいかは分かりませんが、いずれにせよ、彼女は宮廷に出仕するほどの身分の高い家の出身だったことは確かです。

宮廷に仕えていた額田王は、若いうちからその才能を認められ、皇族たちの前で歌を詠む機会が多かったと考えられます。だからこそ、彼女の和歌は当時の天皇や皇族との関係を描いたものが多いのですね。

額田王と天智天皇・天武天皇の関係

額田王は、当初、大海人皇子(後の天武天皇)と結ばれていました。二人の間には「十市皇女(とおちのひめみこ)」という娘も生まれています。しかし、その後、額田王は天武天皇の兄である天智天皇(中大兄皇子)のもとへ行くことになります。

これは、当時の宮廷の政治的な事情が関係しているとも言われています。天智天皇は、自分の地位を強めるために、額田王のような才能ある女性を自らの近くに置きたかったのかもしれません。

しかし、大海人皇子と額田王の関係が完全に終わったわけではなく、宮廷の宴で和歌を詠み合うなど、二人の間にはまだ特別な感情が残っていたのではないかと言われています。

額田王の和歌が示す飛鳥時代の文化と恋愛観

飛鳥時代は、現代とは違い、結婚や恋愛の形がとても自由でした。一夫多妻制が普通であり、女性も恋をする自由があったのです。だからこそ、額田王のように天智天皇と天武天皇、二人の皇子と関係を持つことも珍しくはなかったのかもしれません。

また、当時の宮廷では「相聞歌(そうもんか)」と呼ばれる恋の歌を詠み合う文化がありました。額田王の歌も、この相聞歌の一つとされています。こうした文化の中で、額田王は和歌を通じて自分の気持ちを表現し、宮廷での立場を築いていったのです。

額田王の晩年と最期はどうなったのか

額田王の最期については、はっきりとした記録が残っていません。しかし、持統天皇(天智天皇の娘で天武天皇の妻)の時代まで生きていたと考えられています。

壬申の乱(じんしんのらん)という大きな戦いの後、天武天皇が即位しました。この戦いで、額田王の娘である十市皇女は夫を失い、その悲しみに暮れたと言われています。額田王自身も、かつて愛した人たちが争う姿を見て、何を思ったのでしょうか。

晩年の額田王は、宮廷から離れて静かに暮らしたのではないかと考えられていますが、彼女の歌はその後も多くの人々に読まれ続けています。

額田王はどんな人か簡単に:持統天皇の関係を分かりやすく

額田王は天智天皇・天武天皇の二人の兄弟と関わりを持った女性ですが、彼女と持統天皇(じとうてんのう)との関係についても気になるところです。持統天皇は天智天皇の娘であり、天武天皇の妻でもありました。

額田王と持統天皇は、どのように関わり合っていたのでしょうか?

持統天皇とは?額田王と関係のある女性天皇

持統天皇は、天智天皇の娘であり、大海人皇子(後の天武天皇)の妻でした。つまり、額田王の元夫である大海人皇子と結婚した女性です。持統天皇は壬申の乱の後、夫である天武天皇が亡くなった後に即位し、日本で初めて「譲位」を行った天皇としても知られています。

彼女は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を築いたり、藤原京への遷都を進めたりと、政治面でも大きな功績を残しました。そんな持統天皇と額田王は、宮廷内でどのように関わっていたのでしょうか?

持統天皇と額田王の関係は良好だった?

持統天皇と額田王の間に、明確な敵対関係があったという記録はありません。しかし、額田王が天智天皇に仕えていたことや、持統天皇の夫である天武天皇の元妻だったことを考えると、複雑な感情を抱いていた可能性はあります。

また、持統天皇は「女性が政治の中心に立つこと」に積極的だったため、額田王のように宮廷で活躍した女性たちに対しても理解を示していたかもしれません。

持統天皇が額田王を遠ざけたり、排除したという記録がないことからも、二人の関係は比較的穏やかだったと考えられます。

額田王は持統天皇に仕えていたのか?

持統天皇の時代に、額田王がどのような立場だったのかははっきりしていません。しかし、当時の宮廷では、過去に天皇に仕えていた女性が新しい天皇のもとで歌を詠むことは珍しくありませんでした。

もし額田王が持統天皇のもとで宮廷歌人として活動を続けていたとすれば、彼女は天智天皇、天武天皇、持統天皇という三代の時代を生き抜いたことになります。これは、並大抵の才能では成し遂げられないことです。

また、持統天皇が即位した時代にも、額田王の和歌が宮廷で重要視されていたと考えられています。彼女の歌が万葉集の中で特に目立つ位置に収録されていることからも、額田王が後世にわたって高く評価されていたことが分かります。

壬申の乱と額田王の心情

額田王の人生の中で、壬申の乱(じんしんのらん)は大きな転機だったといえます。この戦いでは、彼女のかつての夫である天武天皇(大海人皇子)が、天智天皇の息子である大友皇子を破りました。

さらに、額田王の娘・十市皇女は、この戦いの中で夫を失い、最終的には若くして亡くなっています。母親として、この出来事をどう受け止めたのでしょうか。彼女の心情を考えると、とても切ないですね。

額田王は、こうした宮廷内の争いを歌に詠むことはしませんでした。しかし、彼女の和歌には「過去の思い出を懐かしむ」ような内容のものが多く、もしかすると壬申の乱の影響があったのかもしれません。

額田王の歌が今でも愛される理由

額田王の和歌は、千年以上も昔のものですが、現代でも多くの人に愛されています。その理由のひとつは、彼女の歌が「人間の普遍的な感情」を詠んでいるからです。

たとえば、「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の 簾動かし秋の風吹く」という歌。

この歌は「あなたを待ちわびていると、風が吹いて簾(すだれ)が揺れました。あなたかと思ったら、ただの風だった…」という意味です。これは、現代の私たちが恋をしているときに感じる「相手を待ち続ける気持ち」と同じですよね。

また、「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」という歌も、多くの人に感動を与えます。恋の喜びと切なさを同時に表現する額田王の歌は、今も昔も変わらない人間の心を映し出しているのです。

総括:額田王はどんな人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 額田王とはどんな人?

  • 飛鳥時代の天才歌人で、日本最古の歌集「万葉集」に12首の和歌を残した。
  • 宮廷で活躍し、恋愛や自然、宮廷生活を題材にした美しい和歌を詠んだ。

2. 額田王の代表的な和歌

  • 「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」
    → 昔の恋人・大海人皇子(天武天皇)に向けた歌で、袖を振るのを見張り番に見られることを心配する内容。
  • 「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の 簾動かし秋の風吹く」
    → 恋しい人を待っていると、簾(すだれ)が揺れて「来たか?」と思ったら、ただの風だったという切ない歌。

3. 額田王の出自と宮廷での地位

  • 父は「鏡王」とされ、身分の高い家の出身だった可能性が高い。
  • 若くして宮廷に仕え、その才能を認められた。

4. 額田王と天智天皇・天武天皇の関係

  • 大海人皇子(天武天皇)と最初に結ばれ、十市皇女を産んだ。
  • 後に天智天皇(中大兄皇子)のもとへ行き、政治的な影響も受けていた。
  • 宮廷の宴では、大海人皇子と和歌の贈答を行い、特別な関係が続いていたとされる。

5. 飛鳥時代の文化と額田王の影響

  • 当時は一夫多妻制が普通で、恋愛や結婚の形が現代より自由だった。
  • 「相聞歌(恋愛の歌)」が宮廷で流行し、額田王もその文化の中で和歌を詠んだ。

6. 額田王と持統天皇の関係

  • 持統天皇(天智天皇の娘・天武天皇の妻)とは敵対関係ではなかった可能性が高い。
  • 持統天皇の時代にも宮廷で額田王の和歌が重要視されていた。
  • 明確な記録はないが、宮廷歌人として仕えていた可能性がある。

7. 壬申の乱と額田王の心情

  • かつての夫・天武天皇と天智天皇の息子・大友皇子が争った「壬申の乱」が起きる。
  • 額田王の娘・十市皇女は夫を亡くし、のちに急逝した。
  • 宮廷の争いに関する歌は詠んでいないが、過去を懐かしむ和歌が多い。

8. 額田王の晩年と最期

  • 明確な記録はないが、持統天皇の時代まで生きていた可能性がある。
  • 晩年は宮廷から離れて静かに暮らしたと考えられている。