「天明の飢饉と天保の飢饉って、どんな違いがあるの?」
この疑問を持つ人は多いでしょう。どちらも江戸時代に発生した大規模な飢饉で、日本の歴史の中で大きな影響を与えました。しかし、発生した時期や原因、被害の大きさ、社会への影響など、詳しく見ていくと違いがたくさんあります。
本記事では、天明の飢饉(1782年〜1788年)と天保の飢饉(1833年〜1839年)の違いを、一覧表を使って分かりやすく解説します。さらに、それぞれの飢饉が当時の日本に与えた影響や、歴史のテストで役立つ語呂合わせまで紹介しますので、ぜひ最後まで読んでください!
天明の飢饉と天保の飢饉の違い:一覧表で簡単比較

日本の歴史にはいくつかの大飢饉がありましたが、中でも「天明の飢饉」と「天保の飢饉」は、特に大きな被害をもたらしました。それでは、まずこの2つの飢饉の違いを一覧表で比較してみましょう。
天明の飢饉と天保の飢饉の違いを一覧表で比較
| 項目 | 天明の飢饉(1782〜1788年) | 天保の飢饉(1833〜1839年) |
|---|---|---|
| 発生時期 | 1782年〜1788年 | 1833年〜1839年 |
| 発生原因 | 浅間山の噴火・冷害・大雨・洪水 | 連年の冷害・長雨・コシグイナ火山の噴火 |
| 主な影響地域 | 東北地方を中心に全国 | 東北地方・関東・近畿など全国 |
| 餓死者数 | 92万人以上(推定) | 30万人以上(推定) |
| 社会への影響 | 打ちこわし・一揆の多発 | 大塩平八郎の乱、天保改革のきっかけ |
| 対応策 | 幕府の救済策が遅れ被害拡大 | 幕府が御救小屋を設置、義倉を整備 |
このように、天明の飢饉と天保の飢饉は共通点も多いですが、それぞれ異なる特徴もあります。次に、それぞれの飢饉がどのように発生したのかを詳しく見ていきましょう。
天明の飢饉はいつなぜ起こったのか?
天明の飢饉は、1782年から1788年にかけて発生しました。江戸時代の中期にあたります。この飢饉の主な原因は次のようなものです。
- 冷害と長雨:1782年から冷害が続き、米の収穫量が大幅に減少しました。
- 浅間山の噴火(1783年):1783年の浅間山の大噴火によって大量の火山灰が降り、農作物が壊滅的な被害を受けました。
- 幕府の対応の遅れ:当時の老中・田沼意次の政策がうまく機能せず、米価が急騰しました。
この飢饉の影響で、東北地方を中心に多くの人々が餓死し、全国で一揆や打ちこわしが相次ぎました。
天保の飢饉はいつなぜ起こったのか?
天保の飢饉は、1833年から1839年にかけて発生しました。江戸時代の後期にあたり、50年前に起きた天明の飢饉と同じように全国で大きな被害をもたらしました。
- 冷害と長雨:1833年から数年間にわたり冷夏や長雨が続き、米の収穫が大幅に減少しました。
- コシグイナ火山の噴火(1835年):この噴火により成層圏に大量の火山灰が広がり、日照不足を引き起こしました。
- 幕府の対応:幕府は天明の飢饉の教訓を活かし、御救小屋を設置して民衆の救済に努めましたが、十分な対策とは言えませんでした。
天保の飢饉の結果、大坂では「大塩平八郎の乱」が勃発し、全国各地で一揆が発生しました。これが幕府の権威低下につながり、後の天保の改革のきっかけとなりました。
天明の飢饉と天保の飢饉:被害の大きさ比較
被害の規模を比べると、天明の飢饉のほうが深刻でした。
- 天明の飢饉の被害:
- 全国で約92万人が死亡したと推定されています。
- 特に東北地方では、村の人口が半減するほどの被害を受けました。
- 天保の飢饉の被害:
- 約30万人が死亡したとされています。
- 都市部では幕府が救済策を実施しましたが、十分ではなく、一揆や打ちこわしが頻発しました。
どちらも大規模な飢饉でしたが、天明の飢饉は浅間山の噴火による火山灰の影響も大きく、より深刻な被害をもたらしました。
天明の飢饉と天保の飢饉の違い:日本の歴史に与えた影響

天明の飢饉と天保の飢饉はどちらも江戸時代に起こった大飢饉ですが、それぞれの飢饉が社会や政治に与えた影響は異なります。ここでは、飢饉がどのように日本の歴史を変えたのかを見ていきましょう。
天明の飢饉がもたらした改革と影響
天明の飢饉は、1782年から1788年の間に発生し、日本の農村に深刻な影響を与えました。特に東北地方では、作物がほとんど取れず、多くの農民が餓死しました。飢饉の影響で、人々の不満が高まり、各地で一揆や暴動が起こりました。
この飢饉の後、幕府は「寛政の改革」を実施しました。この改革を主導したのが老中・松平定信です。彼は次のような政策を行いました。
- 備蓄米の増強:飢饉に備えて各地に食料を貯めるよう指示しました。
- 倹約令の発布:贅沢を禁止し、幕府の財政を引き締めました。
- 困窮者への救済:困っている人々に食料を分け与える「囲米(かこいまい)」を実施しました。
しかし、寛政の改革は厳しすぎたため、人々の反発を招き、松平定信は最終的に失脚してしまいました。
天保の飢饉が幕末の動乱につながった
天保の飢饉(1833年~1839年)は、50年後に発生した飢饉で、特に東北や関東地方で大きな被害を出しました。この飢饉では、農民だけでなく都市部の庶民にも深刻な影響が及びました。
飢饉の影響で、1836年には「天保騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こりました。さらに、1837年には元大阪町奉行所の与力だった「大塩平八郎の乱」が発生しました。彼は「幕府が民を救わないのは許せない!」と立ち上がりましたが、反乱はすぐに鎮圧されました。
このような民衆の不満が高まったことで、幕府の力はどんどん弱くなっていきました。その結果、江戸時代の終わりへとつながっていったのです。
飢饉と火山噴火の関係―自然災害が歴史を動かす
天明の飢饉の大きな原因の一つに、1783年の浅間山の噴火があります。この噴火によって大量の火山灰が空を覆い、太陽の光が遮られ、気温が低下しました。その結果、日本各地で冷害が発生し、作物が育たなくなりました。
また、天保の飢饉の時には、1835年に中米のコシグイナ火山が噴火しました。この火山の噴煙が大気中に広がり、世界的に気温が下がったと言われています。
このように、大規模な火山噴火が気候に影響を与え、それが人々の暮らしに深刻な影響を与えることがわかります。
歴史のテスト対策!語呂合わせで覚えよう
天明の飢饉と天保の飢饉の年代は、日本史のテストによく出ます!語呂合わせを使って、簡単に覚えましょう。
天明の飢饉(1782年~1788年)
👉 「いーな、はやく(178)」天明の改革!
(「いーな(178)」は1780年代を、「はやく」は改革を示しています)
天保の飢饉(1833年~1839年)
👉 「いやー、さみしい(183)」天保の飢饉!
(「いやー(183)」は1830年代を、「さみしい」は飢饉の悲惨さを表現)
このように、数字とキーワードを関連づけることで、飢饉の年代を簡単に覚えることができます!
歴史から学ぶ!私たちができる災害対策とは?
天明の飢饉や天保の飢饉は、食料の備蓄が不十分だったために被害が拡大しました。現代では、同じようなことが起こらないように、政府や自治体が食料の備蓄を進めています。
しかし、私たち一人ひとりも、「家庭での防災対策」をしっかり行うことが大切です。
✅ 食料と水の備蓄:最低3日分、できれば1週間分の食料を用意する
✅ 災害時の行動を確認:家族で避難場所や連絡方法を決めておく
✅ 最新情報をチェック:ニュースや天気予報をこまめに確認する
過去の歴史から学び、災害が起こったときに冷静に対応できるようにしておきましょう。
総括:天明の飢饉と天保の飢饉の違いまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
| 項目 | 天明の飢饉(1782〜1788年) | 天保の飢饉(1833〜1839年) |
|---|---|---|
| 発生時期 | 1782年〜1788年 | 1833年〜1839年 |
| 発生原因 | 浅間山の噴火・冷害・大雨・洪水 | 連年の冷害・長雨・コシグイナ火山の噴火 |
| 主な影響地域 | 東北地方を中心に全国 | 東北地方・関東・近畿など全国 |
| 餓死者数 | 92万人以上(推定) | 30万人以上(推定) |
| 社会への影響 | 打ちこわし・一揆の多発 | 大塩平八郎の乱、天保改革のきっかけ |
| 対応策 | 幕府の救済策が遅れ被害拡大 | 幕府が御救小屋を設置、義倉を整備 |
