「板垣退助(いたがきたいすけ)って何をした人なの?」という疑問に、やさしく、分かりやすく答えていきます。

学校のテストや自由研究だけじゃなく、お札に出てきた「板垣退助」という名前を聞いたことがある人も多いでしょう。でも、「この人って結局どんなすごいことをしたの?」と聞かれると、すぐには答えにくいかもしれません。

この記事では、そんなみなさんのモヤモヤを解決するために、「簡単に」「わかりやすく」板垣退助の人生と活躍を紹介します。

特に注目すべきは「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」という言葉。これは、今の私たちの「選挙で政治に参加する仕組み」にもつながっている、とっても大事なキーワードなんです。

それでは一緒に、板垣退助の足あとをたどっていきましょう!

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板垣退助は何をした人?簡単にわかる功績まとめ

明治時代を語るうえで、板垣退助の名前は外せません。彼の一番の功績は「自由民権運動のリーダー」として、国民が政治に参加できるようにがんばったことです。でもそれだけじゃなく、武士・政治家・改革者といろんな顔を持っていました。

まずは、板垣退助が「何をした人なのか」をやさしく説明していきます。

板垣退助は「自由民権運動」を始めたリーダー

板垣退助が最も有名なのは、「自由民権運動」を始めたことです。自由民権運動とは、「国民も政治に参加させてほしい!」という運動のこと。昔の日本では、えらい人たちだけで政治を決めていたんです。

でも、板垣退助は「国民の声を聞くことが大事だ!」と考え、みんなが選んだ人が国会で話し合う仕組みを作ろうとしました。1874年には「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」を出して、政府に国会を作ってほしいとお願いしました。

これは、日本で初めての「国会を作ってほしい」という正式なお願いだったんですよ!

出身は土佐藩!坂本龍馬と同じ高知県の武士

板垣退助は、今の高知県にあたる「土佐藩(とさはん)」で生まれました。土佐藩といえば、坂本龍馬でも有名ですよね。

退助は「乾(いぬい)」という名前の武士の家に生まれましたが、のちに先祖の名前「板垣」に改姓します。子どものころからけんかっ早くて、ちょっと手がつけられない性格だったそうですが、大きくなると政治や軍の仕事で活躍しはじめます。

土佐藩は倒幕運動にも積極的で、板垣退助も幕府を倒すためにがんばっていました。

戊辰戦争で大活躍!戦場でのリーダーだった

1868年に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)では、板垣退助は土佐藩の軍を率いて大活躍します。特に「迅衝隊(じんしょうたい)」という部隊を指揮し、会津や甲府など、重要な場所を攻め落としました。

戦の中で、退助はただ戦うだけでなく、「民衆を守る」「文化財を守る」という配慮も忘れませんでした。たとえば、日光東照宮を戦場にしないように交渉したことは、とても有名なエピソードです。

このときの経験から「国民みんなで支える国が必要だ」と強く感じたそうです。

名言「板垣死すとも自由は死せず」で有名に

板垣退助の有名な言葉に「板垣死すとも自由は死せず」というものがあります。これは、彼が演説中に暴漢に刺されたときに叫んだとされる言葉です。

実は本当に言ったかどうかははっきりしていません。でもこの言葉が新聞にのって広まり、自由民権運動のシンボルになったのです。

「自由のために命をかけてもいい」という強い意志が、多くの人の心を動かしました。まさに「自由を守る男」として、多くの人から尊敬されるようになったのです。

日本初の政党「自由党」の党首になった

1881年、板垣退助は「自由党(じゆうとう)」という日本で初めての政党を作ります。これは、国会を開くという約束が政府から出されたことを受けて、本格的に政治に参加するための準備でした。

自由党は「国民が選んだ議員で政治をしよう!」という考えを持っていて、板垣退助はその党首として全国をまわって演説をしました。

このときの自由党は、今で言う「国民の声を政治に届ける政党」であり、現在の政党政治の原点といえます。

板垣退助が何した人か簡単に!自由民権運動の関係

板垣退助が活躍した「自由民権運動」は、日本の政治に大きな影響を与えました。この運動がなければ、日本に国会ができるのがもっと遅れていたかもしれません。

ここでは、自由民権運動の具体的な内容や、板垣退助の活躍、そしてその後の影響について詳しく解説していきます。

自由民権運動は「国民の政治参加」を求めた運動

自由民権運動とは、「国民が政治に参加できる仕組みを作ろう!」という考えから生まれた運動です。

明治時代の初め、日本の政治は一部のえらい人たち(特に薩摩藩や長州藩の出身者)が独占していました。国民は税金を払うだけで、政治には口を出せなかったのです。

そこで、板垣退助たちは「国会を作って、みんなの代表を選ぶべきだ!」と主張し、自由民権運動をスタートさせました。これは、今の選挙制度につながる大事な動きだったんですよ!

「民撰議院設立建白書」で国会開設を求めた

1874年、板垣退助たちは「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」という意見書を政府に提出しました。これは「国民が選んだ代表が政治を決めるべきだ!」という主張を伝えるためのもので、日本で初めて国会開設を求めた正式な文書でした。

しかし、政府はこれをすぐには認めませんでした。それどころか、自由民権運動を抑えこもうとして、集会や演説を禁止する法律を作ったのです。

それでも、板垣退助はあきらめず、全国をまわって自由民権運動を広めていきました。

「岐阜事件」で襲われても信念を貫いた

自由民権運動が全国で広まるにつれ、それをよく思わない人たちも出てきました。特に政府を支持する一部の人々は、板垣退助の活動を邪魔しようとしました。

そんな中、1882年に起こったのが「岐阜事件」です。板垣退助が岐阜で演説をしていたとき、突然、暴漢に襲われ、ナイフで刺されてしまったのです!

このとき、「板垣死すとも自由は死せず!」という言葉を叫んだと伝えられています(実際に言ったかどうかは議論されていますが、それほど自由民権運動にかける思いが強かったのです)。

幸い、板垣退助は助かりましたが、この事件をきっかけに彼の名前はさらに有名になりました。そして、自由民権運動もますます広がっていきました。

「国会開設の詔勅」で日本に国会が誕生!

自由民権運動が盛り上がり続ける中、政府もついに無視できなくなります。そこで1881年、政府は「国会開設の詔勅(しょうちょく)」を発表し、「10年後に国会を開く」と約束しました。

この結果、1890年についに「帝国議会(ていこくぎかい)」が開かれ、日本に本格的な議会政治が誕生しました。これは、板垣退助たちの努力が実を結んだ大きな成果でした。

ただし、このときの国会はまだ制限が多く、本当の意味で国民の意見がしっかり反映されるようになるのは、もう少し後のことでした。

板垣退助はその後どうなった?晩年の活動とは

国会開設が実現した後、板垣退助は内務大臣などの要職を務めました。しかし、政治の世界には権力争いが多く、自分の理想とは違う方向に進んでいくのを感じるようになりました。

1898年には、大隈重信(おおくましげのぶ)と組んで「憲政党(けんせいとう)」を作り、日本初の政党内閣を誕生させます。しかし、意見の違いからすぐに辞職し、政界を引退しました。

引退後は、新聞を発行したり、社会活動をしたりして過ごしました。そして、1919年、83歳でこの世を去りました。

総括:板垣退助は何した人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 板垣退助は 自由民権運動のリーダー として知られ、日本に国会を作ることに尽力した人物です。
  • 土佐藩(現在の高知県)出身 で、坂本龍馬と同じ藩の武士でした。
  • 戊辰戦争で「迅衝隊」を率いて活躍し、戦場でも民衆や文化財を守る姿勢を見せました。
  • 1874年、「民撰議院設立建白書」を政府に提出し、国民の政治参加を正式に求めました。
  • 演説中に刺された事件で広まった名言「板垣死すとも自由は死せず」は、自由民権運動の象徴となりました。
  • 1881年、日本初の政党「自由党」を結成し、党首として全国を遊説しました。
  • 1881年の「国会開設の詔勅」を経て、1890年に帝国議会が開かれました。
  • 晩年は内務大臣などを務めたのち、政界を引退し、社会活動に励みました。
  • 1919年に83歳で死去し、その功績からお札にもなりました。