原敬(はら たかし)は、日本の歴史の中でもとても大切な役割を果たした人物です。

明治から大正時代にかけて活躍し、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれた首相として有名です。でも、原敬がどんな人で、どんなことをしてすごかったのか、知らない人も多いかもしれませんね。

そこで今回は、原敬の人生と功績をわかりやすく解説していきます!

※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

原敬は何をした人か簡単に!政治家になるまでの歩みと功績

原敬は、平民の出身から日本の首相にまで上り詰めた稀有な人物です。彼の生い立ちや政治家になるまでの歩みを追いながら、その功績をわかりやすく解説します。

初の本格的な政党内閣をつくった首相

原敬は、1918年に日本で初めて「本格的な政党内閣」をつくった首相です。それまでは、身分の高い人(貴族や元武士など)が政治を動かしていたのですが、原敬は「国民の声を聞く政治」を目指しました。

原はもともと武士の家に生まれましたが、自分の意志で「平民(ふつうの人)」の立場になり、政治の世界で努力を重ねて、首相まで上りつめました。そのため、「平民宰相」と呼ばれ、多くの人から親しまれました。

この時代は、大正デモクラシーといって、国民の意見を政治に反映させようという動きが強まっていたのです。原敬は、その動きの中で、政党が中心となる政治の形をしっかり作り上げた人物だったのです。

外交官からキャリアを始め新聞社社長も経験

原敬は若いころからいろいろな仕事を経験してきました。最初は外交官として働き、外国とのやりとりや条約の交渉に関わっていました。特に中国の天津やフランスのパリでの勤務経験があり、外国語も得意だったそうです。

その後、新聞社「大阪毎日新聞」の社長になり、新聞の売り上げを2倍以上に伸ばすなど、経営の手腕も発揮しました。新聞を通して世の中の動きを知り、人々の声に耳を傾けることが、後の政治家としての原にとって大きな経験になったのです。

このように原敬は、外交、報道、そして政治と、さまざまな分野で実力を発揮した、まさに「多才な人」だったといえます。

自由民権運動や民意重視の姿勢で注目される

原敬は若いころから、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)にも関心を持っていました。これは、「みんなが政治に参加できる社会を作ろう」という運動です。当時の日本は、まだ一部の人しか政治に関われなかったので、原はそれを変えたいと思っていたのです。

フランス語を学ぶ中で、中江兆民(なかえちょうみん)という自由民権運動の指導者とも出会い、大きな影響を受けました。中江は「日本にも民主主義が必要だ」と強く主張した人物です。

原もその考えに共感し、新聞記者として世の中の不公平に目を向けたり、政治のあり方に疑問を持ったりするようになりました。こうした経験が、原敬が「民意(国民の気持ち)を大切にする政治家」になるきっかけとなったのです。

立憲政友会を支え政党政治の基礎を築く

原敬は、伊藤博文が作った「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」という政党に参加しました。最初は幹事長や大臣として働き、後には政友会の総裁(リーダー)にもなりました。

政友会は、国民の声を聞く政治を目指して作られた政党です。原はこの政党をしっかりと支え、多くの議席を獲得する力を持つようになりました。その結果、原が首相になったときには、政友会を中心とする「政党内閣」をつくることができたのです。

それまでの日本では、政党が政治の中心になることは少なかったのですが、原は「国民の代表が政治を動かすべきだ」という信念を持っていました。その努力が、現在のような民主主義政治の土台になったのです。

なぜ暗殺された?死の背景にあった時代の不満

原敬は、1921年11月4日、東京駅で暗殺されてしまいました。犯人は政治活動家ではなく、普通の鉄道職員の青年でした。彼は当時の政治に不満を持ち、「政治家は国民を大事にしていない」と感じていたのです。

実はこのころ、日本では物価が急に上がったり、戦争の影響で生活が苦しくなったりしていて、多くの人が不満を感じていました。新聞や世論も、原が財界ばかりを優遇していると批判していました。

原は本当は「国民のための政治」をしようとしていましたが、その気持ちが十分に伝わらなかったことが、暗殺の背景にあったのです。原の死後、日本の政治はしばらく混乱し、軍の力が強まっていくことになります。

原敬は何した人か簡単に!何がすごいかまとめ

ここからは、原敬がどんなところですごかったのかを、5つのポイントに分けて解説していきます。原敬の生き方や政策には、現代の私たちにも通じるヒントがたくさんありますよ!

平民出身ながら首相になった前例のない人物

原敬の一番すごいところは、身分が高くない「平民」の出身でありながら、日本の総理大臣になったことです。もともとは武士の家に生まれましたが、戊辰戦争で負けた「賊軍」の出身だったため、明治政府の中では不利な立場でした。

しかし原は、自分で平民になり、学問と経験を積み重ねて、政党の力を使って首相になりました。それまでの日本の政治は、「身分が高い人」が当たり前のようにリーダーになっていたので、これはとても画期的なことだったのです。

「身分に関係なく、努力すればトップに立てる」。このことを原敬は実際に証明してくれたのです。

教育・交通・産業の改革を強く進めました

原敬は「四大政綱(しだいせいこう)」とよばれる4つの重要な政策を打ち出しました。それが「教育の改善」「交通の整備」「国防の充実」「産業の発展」です。

たとえば、学校を増やして教育を受けられる子どもを増やしたり、鉄道や道路、港を整えて、人やモノの移動をスムーズにしました。また、工場を建てたり、海外との貿易を広げたりして、日本の経済を発展させる基礎をつくりました。

これらの取り組みは、今の日本の社会やインフラの土台にもつながっています。国を動かすためには、まず「暮らしやすい環境」をつくることが大事だと考えていたのです。

軍部の暴走を抑えようとしたリーダー

原敬が活躍していた時代、日本では軍の力がだんだんと強くなっていく時期でもありました。でも、原は「政治はあくまで民意が中心であるべきだ」と考えていたので、軍の暴走を抑えようと努力しました。

たとえば、軍が勝手に戦争に踏み出そうとするのを防いだり、政治の中で軍の意見ばかりが通ることがないように、バランスをとるようにしていました。

軍部と対立することはとても大変で、命の危険もありましたが、原は冷静に政治の舵(かじ)取りを行いました。結果として、軍の力を抑えながら、国民のための政治を進めようとしたのです。

対米協調と中国への穏健外交

原敬は、外交(がいこう)にもとても優れた感覚を持っていました。特に、「アメリカとは仲良くしていくべきだ」「中国を無理やり支配するようなことはしてはいけない」という方針を持っていました。

これらの考えは、当時の世界情勢をしっかりと見据えたものです。そして今でも「平和な外交関係」を大切にする日本の方針に通じるものがあります。

原敬は「武力で物事を解決するのではなく、話し合いや貿易で良い関係を築こう」と考えていたのです。これはまさに、21世紀の私たちが見習うべき考え方ですね。

本格的な政党政治の土台を築く

最後に、原敬が日本に残した一番大きな功績は「政党政治の仕組み」をしっかりと築いたことです。

それまでは、限られた人たちだけで政治が行われていて、国民の声はなかなか届きませんでした。でも原は、「国民が選んだ代表が政治を動かす」という、今の民主主義の形を作ったのです。

原の努力のおかげで、後に多くの政党が生まれ、国民の意見が反映されるようになりました。今の日本の政治があるのは、原敬の「国民のための政治」という信念があったからなのです。

総括:原敬は何した人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

✅ 原敬は何をした人

  • 日本で初めて「本格的な政党内閣」をつくった首相(1918年)。
  • 自ら「平民」となり、身分に頼らず努力で首相に上りつめた。
  • 外交官や新聞社社長など、多くの職業を経験した多才な人物。
  • 自由民権運動に影響を受け、民意を大切にする政治姿勢を貫いた。
  • 立憲政友会のリーダーとして、政党政治を基礎から支えた。
  • 東京駅で暗殺されるが、その背景には国民の不満や社会情勢の混乱があった。

✅ 原敬の「すごいところ」

  • 平民出身でありながら、首相になった前例のない出世を果たした。
  • 教育・交通・産業などの改革「四大政綱」を推進し、日本の社会基盤を整えた。
  • 軍の力が強まる中でも、冷静に軍部の暴走を抑えようとした。
  • 対米協調・穏健な中国外交など、先を見据えた柔軟な外交を行った。
  • 国民が政治に参加する「政党政治」のしくみをつくり、今の民主主義の土台を築いた。