みなさんは「上杉謙信」という戦国武将を知っていますか?
「越後の龍」とも呼ばれ、戦国最強の武将の一人として有名ですが、実は「女性だったのでは?」という説があるのです。
「上杉謙信が女性だったなんて本当?」
「どうしてそんな噂があるの?」
「女性説には根拠があるの?」
このような疑問を持つ人のために、今回は上杉謙信の女性説について詳しく解説します!
上杉謙信は本当に女性だったの?女性説の根拠とその由来

上杉謙信が女性だったという説は、どこから出てきたのでしょうか?実は、いくつかの歴史的な記録やエピソードが根拠とされています。
ここでは、その理由について詳しく解説していきます。
上杉謙信が女性だと言われる最大の理由とは?
上杉謙信が女性だったとされる理由はいくつかありますが、最も有名なのは次の2つです。
- スペインの報告書に「上杉景勝の叔母(tia)」と書かれていた
- 死因が「大虫(婦人病)」とされている
これらの記録が「謙信は女性だったのでは?」という説を生むきっかけになりました。さらに、戦国時代には女性領主が珍しくなかったこともあり、上杉謙信も実は女性だったのではないかと考えられるようになったのです。
では、それぞれの理由について詳しく見ていきましょう。
ゴンザレス報告書とは?上杉謙信が“叔母”と記載された理由
16世紀のスペイン人船乗り、ゴンザレスが国王フェリペ2世に送った報告書に、「上杉景勝の叔母(tia)が佐渡の金山を開発した」と書かれていたとされます。「tia」はスペイン語で「叔母」を意味します。このため、「叔母=女性」なので、謙信は女性だったのでは?という説が生まれました。
しかし、ここには2つの疑問点があります。
- 叔母(tia)と伯父(tio)は筆記体では間違えやすい
- 上杉景勝には謙信以外にも叔母がいた可能性がある
つまり、「叔母」と書かれているからといって、それが上杉謙信を指しているとは限らないのです。この記録だけでは謙信の女性説を決定づけるには弱いと言えるでしょう。
上杉謙信の死因「大虫」とは婦人病を指すのか?
上杉謙信の死因は「大虫」と記録されています。この「大虫」という言葉が「婦人病」の隠語だったのではないかと言われ、女性説の根拠のひとつになっています。
しかし、歴史学者の中には「大虫」は「脳卒中」や「寄生虫が引き起こす病気」を指していたのではないかという意見もあります。実際、当時の日本では「虫気(むしけ)」と呼ばれる病気があり、これは腹痛や高熱を引き起こす症状を指していました。
つまり、「大虫=婦人病」とは言い切れず、他の病気だった可能性も十分にあるのです。
肖像画に描かれた謙信の顔は女性的?ひげの有無が鍵
上杉謙信の肖像画を見ると、あるものにはひげが描かれていますが、あるものにはひげがありません。特に、江戸時代に描かれた肖像画では、ひげを強調したものが多く見られます。
しかし、謙信が生きていた当時に描かれたとされる最古の肖像画には、ひげがなく、ふっくらとした顔立ちをしています。これが「女性的な顔では?」と議論される理由です。
ただし、戦国時代の武将はひげを生やしている人が多かったものの、ひげが薄い人もいました。そのため、ひげの有無だけで性別を判断するのは難しいでしょう。
上杉謙信の筆跡や書簡の表現は女性らしい?
謙信が残した手紙を見ると、字がとてもきれいで繊細な筆跡をしていることが分かります。さらに、内容もとても優雅で、恋愛小説のような表現を使っていることが指摘されています。
例えば、謙信は「源氏物語」や「伊勢物語」など、恋愛をテーマにした物語を好んでいたと言われています。これが「女性的な感性を持っていた」と解釈されることもあります。
ただし、当時の教養のある武将はみんな和歌や文学を学んでいました。筆跡や表現の仕方だけで「女性だった」と決めつけるのは難しいでしょう。
上杉謙信女性説の矛盾と反論:歴史学的な見解

ここまで、上杉謙信が女性だったと言われる理由を紹介しました。しかし、歴史学的に見ると、それを否定する証拠も多く存在します。
ここでは、女性説に対する反論や、当時の社会背景から考えられる事実を解説します。
戦国時代に女性当主は存在したのか?
戦国時代には女性の城主が何人かいました。例えば、井伊直虎(いいなおとら)や立花誾千代(たちばなぎんちよ)などが有名です。
しかし、彼女たちは家督を継いだだけで、実際に戦を指揮した記録はほとんどありません。一方、上杉謙信は70回以上の戦に出陣し、直接指揮を執っていました。
戦国時代に女性が武将として活躍するのは非常に珍しく、謙信がもし女性だったなら、その記録が残っていてもおかしくありません。そのため、「女性だったら戦を率いるのは難しかったのでは?」という疑問が出てきます。
上杉謙信が女性なら、なぜ誰も気づかなかったのか?
もし上杉謙信が女性だったとすれば、家臣や周囲の人々は気づいていたはずです。しかし、当時の文献には謙信が女性だったことを明確に示す記録は一切残っていません。
また、謙信は戦場にも頻繁に出向いていました。当時の武士は戦の際に鎧を着るため、女性だった場合、着替えや入浴などの場面で違和感が生じるはずです。それにも関わらず、女性であることを疑う記録がないのは不自然ではないでしょうか。
さらに、謙信は朝廷から「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」という官職を与えられています。この役職は男性にしか与えられないものであり、女性だった場合は任官自体が難しかったと考えられます。
生涯不犯の誓い=女性だった証拠なのか?
上杉謙信は「生涯不犯(しょうがいふぼん)」、つまり一生涯にわたり異性との交わりを持たないと誓っていました。このことから「女性だったから不犯を守ったのでは?」という説もあります。
しかし、これには別の解釈があります。
- 謙信は仏教の教えに従っていたため、不犯の誓いを立てた
- 名代家督(なだいかとく)として一時的に当主を務める立場だったため、子を作らなかった
- 戦国時代には男色(男性同士の関係)が珍しくなく、女性との交わりを持たなかっただけでは性別の決定打にはならない
このように、「生涯不犯=女性だった」と単純に結びつけることはできません。むしろ、宗教的な理由や当主の立場を考慮すれば、男性でもあり得ることだったのです。
上杉謙信の家督相続と武士の慣習から考える
上杉謙信は家督を継ぐ際、兄・長尾晴景(ながおはるかげ)から家督を譲られました。このように、当時の武士社会では、通常男性が家督を継ぐのが当たり前でした。
女性が家督を継ぐケースもありましたが、それは「正当な男性後継者がいない場合」に限られます。しかし、上杉家には謙信の兄がいて、もし謙信が女性だったなら、わざわざ女性を当主にする必要がありません。むしろ、他の男性後継者を立てるのが普通だったでしょう。
また、謙信が養子をとった際も、後継者はすべて男性でした。もし謙信が女性だったなら、その事実が歴史に残っていてもおかしくありません。
なぜ上杉謙信女性説は現代まで広まったのか?
歴史学的には女性説の信ぴょう性は低いにもかかわらず、なぜこの話は現代まで広まったのでしょうか?その理由は、主に以下の3つが挙げられます。
- 小説家・八切止夫(やぎりとしお)の影響
八切止夫が1968年に小説『上杉謙信は男か女か』を発表し、その中で女性説を紹介しました。これがきっかけで、多くの人が「謙信は女性だったかもしれない」と考えるようになりました。 - 漫画やゲームなどのフィクションの影響
近年では『雪花の虎』など、謙信を女性として描く漫画やゲームが増えました。これにより、「謙信=女性」というイメージが一般の人々に浸透していったのです。 - 謙信のミステリアスな生涯
謙信は生涯独身で、戦に明け暮れた人生を送りました。そのため「実は女性だったのでは?」というロマンあふれる解釈が広まりやすかったのです。
総括:上杉謙信が女だと言われる理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 上杉謙信が女性だと言われる主な根拠
- スペインの報告書(ゴンザレス報告書)に「上杉景勝の叔母(tia)」と記載
→ 叔母=女性という解釈が生まれたが、誤訳や別人の可能性もある。 - 死因が「大虫(婦人病)」とされている
→ ただし、「大虫」は脳卒中や寄生虫病の可能性もある。 - 肖像画の一部にひげが描かれていない
→ ただし、当時の武将でもひげを生やさない人もいたため、決定的な証拠にはならない。 - 筆跡や書簡の表現が女性らしいとされる
→ しかし、当時の教養ある武将は和歌や文学を嗜んでいたため、女性的とは言い切れない。
2. 上杉謙信女性説の矛盾や反論
- 戦国時代に女性当主はいたが、謙信ほど戦を指揮した例はない
- 武将として戦場で活躍し、誰も女性だと疑わなかったのは不自然
- 「生涯不犯の誓い=女性だった証拠」とは限らない
→ 仏教の教え、家督相続の事情、男色文化の影響など、他の要因も考えられる。 - 家督相続の慣習上、女性が継ぐ可能性は低い
→ 兄がいたにも関わらず、女性を当主にするのは不自然。 - 朝廷から「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」の官職を与えられており、当時女性が任官されることはなかった。
3. 上杉謙信女性説が広まった理由
- 歴史小説家・八切止夫の小説(1968年)
→ 『上杉謙信は男か女か』で女性説が広まり、議論のきっかけとなった。 - 漫画・ゲームの影響
→ 『雪花の虎』など、女性として描かれる作品が増えたことで一般に浸透した。 - 謙信のミステリアスな生涯
→ 生涯独身・戦一筋の人生が「実は女性だったのでは?」というロマンを生み、噂が広がった。
