今日は「屯田兵(とんでんへい)」について、やさしくわかりやすく解説していきます。
「屯田兵って何?」
「どんな人がなったの?」
「北海道と関係があるって聞いたけど…」
そんな疑問をもっている人は多いと思います。
でも大丈夫!この記事を最後まで読めば、屯田兵のことがよく分かります。さあ、歴史の世界へ出発しましょう!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓


屯田兵とは何か簡単に解説!目的や成り立ち
北海道の歴史を語るうえで、絶対に外せないのが「屯田兵」です。ここでは、まず「屯田兵ってそもそも何?」というところから始まり、その目的や生活、配置の仕組み、混同されがちな「開拓使」との違いまで、しっかりおさえていきます。
屯田兵とは“農業と軍事の両立をした開拓者”
屯田兵とは、ふだんは農業をしながら、いざというときには兵士として戦う「半分農民・半分兵士」の人たちのことです。
明治時代、北海道はまだまだ未開の地が多く、そこに人を送って畑を作ったり、町を作ったりする必要がありました。でも、ただの農民では、もし外国から攻められた時に守る力が足りません。
そこで政府は、「農業もできて戦える人」を全国から集めて、北海道の各地に住まわせたのです。これが「屯田兵制度」と呼ばれるしくみです。イメージで言うと、「農作業服の下に鎧を着た人」みたいな感じです。日中は畑を耕して、夜は銃の訓練。そんな毎日を送っていたんですね。
屯田兵が誕生した理由3つ
「どうしてそんな制度ができたの?」と聞かれたら、答えは「ロシアの脅威」「北海道の開拓」「士族の救済」の3つです。
明治時代の初め、日本はロシアという大国からの南下(領土を広げる動き)におびえていました。北海道が狙われたら、日本全体が危なくなる…ということで、国を守るために“兵士”が必要だったのです。
さらに、当時の北海道はまだまだ未開の土地。町も田んぼもほとんどありませんでした。そこで、人を送り込んで開拓し、農業を広めようと考えたわけです。
そしてもう一つの理由が、「士族授産(しぞくじゅさん)」です。明治維新で仕事を失った武士たちに、新しい生き方=農業をしてもらうため、屯田兵にして北海道に送りました。
屯田兵のくらしは厳しい規律と自然との闘いだった
「屯田兵って恵まれてたんでしょ?」と思う人もいるかもしれません。でも、じつはとても厳しい生活だったんです。
彼らは、政府から「兵屋(へいや)」とよばれる家をもらい、そこに家族と一緒に住んでいました。畑を耕す土地や、最初のうちは米や塩も支給されました。
でも、北海道の自然はきびしく、冬はマイナス20度になることも…。寒さと雪の中での農作業は命がけだったのです。
しかも、日中は農業、夕方からは軍事訓練という二重生活。朝から晩まで働きづめで、規律もとてもきびしかったそうです。少しでも遅刻したら罰則があったという記録もあります。
それでも、家族と一緒に移住し、土地を切り開いていった彼らの努力が、今の北海道の土台を作ったのです。
屯田兵の仕組みと入植地の広がりを一覧で紹介【配置図・年表付き】
屯田兵は、明治8年(1875年)から全国の士族・農民などを北海道に送り込み、全道で37の「兵村(へいそん)」がつくられました。
代表的な場所には、札幌の「琴似(ことに)」「新琴似(しんことに)」、旭川の「永山(ながやま)」、滝川の「江部乙(えべおつ)」、北見の「野付牛(のつけうし)」などがあります。
このような兵村は、「中隊(ちゅうたい)」という単位で作られました。一つの村に約200~240戸が集まり、指揮官のもとで軍事訓練と開拓を行っていたのです。
彼らの配置は、ただの農地計画ではなく、「もしロシアが攻めてきたらすぐに対応できるように」という国防上の意味もありました。つまり、屯田兵の配置そのものが“日本の盾”だったわけです。
開拓使との違い
「開拓使(かいたくし)と屯田兵って、どっちも北海道開拓に関係あるけど、どう違うの?」
これはよくある質問ですが、塾長が簡単に説明しましょう!
- 屯田兵:人・制度のこと(農業+軍事を行う入植者)
- 開拓使:国の役所のこと(北海道を開発するために作られた行政機関)
つまり、「命令する側」が開拓使で、「実際に働く人」が屯田兵です。たとえば、「会社」と「社員」のような関係ですね。
開拓使は、明治2年に設置されて、北海道に鉄道を作ったり、農業を広めたり、札幌農学校(現・北海道大学)を作ったりもしました。一方の屯田兵は、開拓使が決めた方針にしたがって、実際に土地を開拓し、生活を作っていった人たちなんです。
屯田兵とは何か簡単に:どんな人?アイヌとの関係
この章では、屯田兵に選ばれた人たちはどんな人だったのか、また北海道にすでに住んでいたアイヌの人々との関係、そして現代の北海道にどんな影響が残っているのかを、わかりやすく解説していきます。
士族授産政策との関係
まず、屯田兵に選ばれたのはどんな人たちだったのでしょう?
一番最初に選ばれたのは、明治維新によって仕事を失った「士族(しぞく)」、つまり元・武士の人たちでした。当時の政府は、失業して困っている士族に新しい生き方を与えるため、「士族授産(しぞくじゅさん)」という政策を進めていたのです。
「刀をクワに持ちかえよ」と言われ、武士だった人たちは農業を始めることになりました。
しかし、全員が武士だったわけではありません。しばらくすると、平民(農民など)にも屯田兵の門戸が開かれ、だんだんと武士だけでなく、いろいろな身分の人たちが屯田兵として北海道に入植しました。
つまり、屯田兵とは「日本を守る力」と「農業の力」の両方を求められた“新しい時代の開拓者”だったのです。
アイヌとの関係は?“同化政策”と土地問題
屯田兵が北海道に入ってきたとき、すでにそこには「アイヌ」と呼ばれる先住民族の人々が住んでいました。
アイヌの人々は、森や川で自然と共に暮らしており、独自の言葉や文化を持っていました。でも、明治政府はアイヌの人々に対して「同化政策(どうかせいさく)」という政策を行いました。
これは、アイヌの文化や言葉をやめさせ、日本人と同じ生活を強制するというものでした。そして、屯田兵たちが入植することで、アイヌの人たちが使っていた土地も奪われていきました。
たとえば、狩りのための山や川が「国の土地」とされ、自由に使えなくなったり、農業を無理にやらされたりしました。このような歴史は、今もアイヌ民族の権利や文化を考えるときに、とても大切な問題となっています。
屯田兵の影響は今も残る!北海道に広がる地名や文化
屯田兵が北海道に残した影響は、今もたくさん見られます!
たとえば、札幌市の「屯田(とんでん)」や「新琴似(しんことに)」、「美唄(びばい)」「江部乙(えべおつ)」「永山(ながやま)」といった地名は、屯田兵が入植した場所の名前がそのまま使われています。
また、「屯田兵屋(とんでんへいや)」とよばれる木造の家も、いま博物館などに保存されています。当時の人たちのくらしが分かる、とても貴重な建物です。
さらに、屯田兵たちが始めた農業が、いまの北海道の広大な畑や酪農(らくのう)文化のもとになっています。ジンギスカンやビールなどの食文化も、開拓の時代から受けつがれてきたものです。
つまり、私たちがいま知っている「北海道らしさ」の多くは、屯田兵たちがつくりあげたと言ってもいいでしょう。
テストに出る屯田兵関連キーワード5選
ここでは、歴史のテストによく出る「屯田兵」に関係するキーワードを、簡単におさらいしておきましょう!
- 屯田兵(とんでんへい)
→ 明治時代に、農業と軍事をかねた開拓者として北海道に入植した人たち。 - 士族授産(しぞくじゅさん)
→ 明治維新で職を失った武士(士族)に、新しい仕事を与える政策。屯田兵制度のきっかけにもなった。 - 開拓使(かいたくし)
→ 北海道を開発するために作られた明治政府の行政組織。屯田兵の配置なども指示した。 - 兵屋(へいや)
→ 屯田兵たちが住んでいた家のこと。木造で、家族と一緒に暮らせるようになっていた。 - 兵村(へいそん)
→ 屯田兵が住んでいた村のこと。北海道各地に37カ所以上あり、今の地名にもなっている。
これらのキーワードを覚えておくと、学校の授業やテストでもきっと役立ちます!
総括:屯田兵とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 屯田兵とは
農業と軍事を両立する開拓者で、普段は農業、非常時は兵士として北海道を守った人たち。 - 制度の目的
①ロシアの南下対策
②北海道の開拓推進
③士族の救済(士族授産) - 生活の特徴
農業と軍事訓練をこなす二重生活。厳しい自然環境と規律の中で生活していた。 - 配置と仕組み
明治8年から全道に37の兵村が設置され、札幌・旭川・滝川・北見などに分布。 - 開拓使との違い
開拓使=行政機関、屯田兵=実際に開拓・警備を行った人たち。 - どんな人が屯田兵に?
初期は士族(元武士)、のちに農民も加わり、様々な身分の人が従事。 - アイヌとの関係
政府の同化政策により、アイヌの文化や土地が奪われる結果となった。 - 現在への影響
地名(屯田・新琴似など)や農業文化、食文化(ジンギスカン・ビール)に屯田兵の影響が色濃く残る。 - テストに出る重要語句
屯田兵、士族授産、開拓使、兵屋、兵村など。