今日は「屯田兵(とんでんへい)」について、やさしくわかりやすく解説していきます。

「屯田兵って何?」
「どんな人がなったの?」
「北海道と関係があるって聞いたけど…」

そんな疑問をもっている人は多いと思います。

でも大丈夫!この記事を最後まで読めば、屯田兵のことがよく分かります。さあ、歴史の世界へ出発しましょう!

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屯田兵とは何か簡単に解説!目的や成り立ち

北海道の歴史を語るうえで、絶対に外せないのが「屯田兵」です。ここでは、まず「屯田兵ってそもそも何?」というところから始まり、その目的や生活、配置の仕組み、混同されがちな「開拓使」との違いまで、しっかりおさえていきます。

屯田兵とは“農業と軍事の両立をした開拓者”

屯田兵とは、ふだんは農業をしながら、いざというときには兵士として戦う「半分農民・半分兵士」の人たちのことです。

明治時代、北海道はまだまだ未開の地が多く、そこに人を送って畑を作ったり、町を作ったりする必要がありました。でも、ただの農民では、もし外国から攻められた時に守る力が足りません。

そこで政府は、「農業もできて戦える人」を全国から集めて、北海道の各地に住まわせたのです。これが「屯田兵制度」と呼ばれるしくみです。イメージで言うと、「農作業服の下に鎧を着た人」みたいな感じです。日中は畑を耕して、夜は銃の訓練。そんな毎日を送っていたんですね。

屯田兵が誕生した理由3つ

「どうしてそんな制度ができたの?」と聞かれたら、答えは「ロシアの脅威」「北海道の開拓」「士族の救済」の3つです。

明治時代の初め、日本はロシアという大国からの南下(領土を広げる動き)におびえていました。北海道が狙われたら、日本全体が危なくなる…ということで、国を守るために“兵士”が必要だったのです。

さらに、当時の北海道はまだまだ未開の土地。町も田んぼもほとんどありませんでした。そこで、人を送り込んで開拓し、農業を広めようと考えたわけです。

そしてもう一つの理由が、「士族授産(しぞくじゅさん)」です。明治維新で仕事を失った武士たちに、新しい生き方=農業をしてもらうため、屯田兵にして北海道に送りました。

屯田兵のくらしは厳しい規律と自然との闘いだった

「屯田兵って恵まれてたんでしょ?」と思う人もいるかもしれません。でも、じつはとても厳しい生活だったんです。

彼らは、政府から「兵屋(へいや)」とよばれる家をもらい、そこに家族と一緒に住んでいました。畑を耕す土地や、最初のうちは米や塩も支給されました。

でも、北海道の自然はきびしく、冬はマイナス20度になることも…。寒さと雪の中での農作業は命がけだったのです。

しかも、日中は農業、夕方からは軍事訓練という二重生活。朝から晩まで働きづめで、規律もとてもきびしかったそうです。少しでも遅刻したら罰則があったという記録もあります。

それでも、家族と一緒に移住し、土地を切り開いていった彼らの努力が、今の北海道の土台を作ったのです。

屯田兵の仕組みと入植地の広がりを一覧で紹介【配置図・年表付き】

屯田兵は、明治8年(1875年)から全国の士族・農民などを北海道に送り込み、全道で37の「兵村(へいそん)」がつくられました

代表的な場所には、札幌の「琴似(ことに)」「新琴似(しんことに)」、旭川の「永山(ながやま)」、滝川の「江部乙(えべおつ)」、北見の「野付牛(のつけうし)」などがあります。

このような兵村は、「中隊(ちゅうたい)」という単位で作られました。一つの村に約200~240戸が集まり、指揮官のもとで軍事訓練と開拓を行っていたのです。

彼らの配置は、ただの農地計画ではなく、「もしロシアが攻めてきたらすぐに対応できるように」という国防上の意味もありました。つまり、屯田兵の配置そのものが“日本の盾”だったわけです。

開拓使との違い

「開拓使(かいたくし)と屯田兵って、どっちも北海道開拓に関係あるけど、どう違うの?」

これはよくある質問ですが、塾長が簡単に説明しましょう!

  • 屯田兵:人・制度のこと(農業+軍事を行う入植者)
  • 開拓使:国の役所のこと(北海道を開発するために作られた行政機関)

つまり、「命令する側」が開拓使で、「実際に働く人」が屯田兵です。たとえば、「会社」と「社員」のような関係ですね。

開拓使は、明治2年に設置されて、北海道に鉄道を作ったり、農業を広めたり、札幌農学校(現・北海道大学)を作ったりもしました。一方の屯田兵は、開拓使が決めた方針にしたがって、実際に土地を開拓し、生活を作っていった人たちなんです。

屯田兵とは何か簡単に:どんな人?アイヌとの関係

この章では、屯田兵に選ばれた人たちはどんな人だったのか、また北海道にすでに住んでいたアイヌの人々との関係、そして現代の北海道にどんな影響が残っているのかを、わかりやすく解説していきます。

士族授産政策との関係

まず、屯田兵に選ばれたのはどんな人たちだったのでしょう?

一番最初に選ばれたのは、明治維新によって仕事を失った「士族(しぞく)」、つまり元・武士の人たちでした。当時の政府は、失業して困っている士族に新しい生き方を与えるため、「士族授産(しぞくじゅさん)」という政策を進めていたのです。

「刀をクワに持ちかえよ」と言われ、武士だった人たちは農業を始めることになりました。

しかし、全員が武士だったわけではありません。しばらくすると、平民(農民など)にも屯田兵の門戸が開かれ、だんだんと武士だけでなく、いろいろな身分の人たちが屯田兵として北海道に入植しました。

つまり、屯田兵とは「日本を守る力」と「農業の力」の両方を求められた“新しい時代の開拓者”だったのです。

アイヌとの関係は?“同化政策”と土地問題

屯田兵が北海道に入ってきたとき、すでにそこには「アイヌ」と呼ばれる先住民族の人々が住んでいました。

アイヌの人々は、森や川で自然と共に暮らしており、独自の言葉や文化を持っていました。でも、明治政府はアイヌの人々に対して「同化政策(どうかせいさく)」という政策を行いました。

これは、アイヌの文化や言葉をやめさせ、日本人と同じ生活を強制するというものでした。そして、屯田兵たちが入植することで、アイヌの人たちが使っていた土地も奪われていきました。

たとえば、狩りのための山や川が「国の土地」とされ、自由に使えなくなったり、農業を無理にやらされたりしました。このような歴史は、今もアイヌ民族の権利や文化を考えるときに、とても大切な問題となっています。

屯田兵の影響は今も残る!北海道に広がる地名や文化

屯田兵が北海道に残した影響は、今もたくさん見られます!

たとえば、札幌市の「屯田(とんでん)」や「新琴似(しんことに)」、「美唄(びばい)」「江部乙(えべおつ)」「永山(ながやま)」といった地名は、屯田兵が入植した場所の名前がそのまま使われています。

また、「屯田兵屋(とんでんへいや)」とよばれる木造の家も、いま博物館などに保存されています。当時の人たちのくらしが分かる、とても貴重な建物です。

さらに、屯田兵たちが始めた農業が、いまの北海道の広大な畑や酪農(らくのう)文化のもとになっています。ジンギスカンやビールなどの食文化も、開拓の時代から受けつがれてきたものです。

つまり、私たちがいま知っている「北海道らしさ」の多くは、屯田兵たちがつくりあげたと言ってもいいでしょう。

テストに出る屯田兵関連キーワード5選

ここでは、歴史のテストによく出る「屯田兵」に関係するキーワードを、簡単におさらいしておきましょう!

  1. 屯田兵(とんでんへい)
     → 明治時代に、農業と軍事をかねた開拓者として北海道に入植した人たち。
  2. 士族授産(しぞくじゅさん)
     → 明治維新で職を失った武士(士族)に、新しい仕事を与える政策。屯田兵制度のきっかけにもなった。
  3. 開拓使(かいたくし)
     → 北海道を開発するために作られた明治政府の行政組織。屯田兵の配置なども指示した。
  4. 兵屋(へいや)
     → 屯田兵たちが住んでいた家のこと。木造で、家族と一緒に暮らせるようになっていた。
  5. 兵村(へいそん)
     → 屯田兵が住んでいた村のこと。北海道各地に37カ所以上あり、今の地名にもなっている。

これらのキーワードを覚えておくと、学校の授業やテストでもきっと役立ちます!

総括:屯田兵とは何か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 屯田兵とは
    農業と軍事を両立する開拓者で、普段は農業、非常時は兵士として北海道を守った人たち。
  • 制度の目的
    ①ロシアの南下対策
    ②北海道の開拓推進
    ③士族の救済(士族授産)
  • 生活の特徴
    農業と軍事訓練をこなす二重生活。厳しい自然環境と規律の中で生活していた。
  • 配置と仕組み
    明治8年から全道に37の兵村が設置され、札幌・旭川・滝川・北見などに分布。
  • 開拓使との違い
    開拓使=行政機関、屯田兵=実際に開拓・警備を行った人たち。
  • どんな人が屯田兵に?
    初期は士族(元武士)、のちに農民も加わり、様々な身分の人が従事。
  • アイヌとの関係
    政府の同化政策により、アイヌの文化や土地が奪われる結果となった。
  • 現在への影響
    地名(屯田・新琴似など)や農業文化、食文化(ジンギスカン・ビール)に屯田兵の影響が色濃く残る。
  • テストに出る重要語句
    屯田兵、士族授産、開拓使、兵屋、兵村など。