今日は歴史の授業でよく出てくる「井伊直弼(いいなおすけ)」について、塾長が分かりやすく解説します。

「井伊直弼って何をした人?」と聞かれたら、みんなは答えられますか?名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らない人が多いかもしれませんね。

実は彼は、日本が外国と貿易を始めるきっかけを作った人なんです。でも、その決断が原因でたくさんの人に恨まれて、最後は暗殺されてしまいました。どうしてそんなことになったのか、彼の生涯や功績を年表とともに詳しく見ていきましょう!

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井伊直弼は何した人?生涯年表と功績を簡単に解説

井伊直弼は、幕末の日本において重要な役割を果たした人物です。彼の生涯を年表で振り返ることで、どんな行動をして日本の歴史に名を刻んだのかが明確に分かります。

これから、井伊直弼の功績と生涯を簡単に解説していきます。

井伊直弼の生涯年表|何をした人か一目で確認

井伊直弼は、幕末の日本でとても重要な役割を果たした人物です。彼の生涯を年表にまとめてみました。

年号出来事
1815年(文化12年)彦根藩(現在の滋賀県)の第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれる。
1831年(天保2年)父・井伊直中が死去。藩の掟により、庶子である直弼は埋木舎(うもれぎのや)での生活を強いられる。
1835年(天保6年)江戸に向かい、養子候補としての面接を受けるも不採用となり、再び彦根へ戻る。
1846年(弘化3年)兄・井伊直亮の嫡男が急死し、直弼が井伊家の家督を継ぐことが決定。
1850年(嘉永3年)彦根藩の第13代藩主に就任し、藩政改革を開始。
1853年(嘉永6年)アメリカのペリー提督が黒船で来航し、日本に開国を迫る。
1858年(安政5年)幕府の大老に就任。日米修好通商条約を天皇の許可なく締結し、日本の開国を進める。
1859年(安政6年)反対派の大名や志士を弾圧する「安政の大獄」を実施。吉田松陰などが処刑される。
1860年(安政7年)3月3日、江戸城へ向かう途中、桜田門外で水戸浪士らに襲撃され暗殺される(桜田門外の変)。

井伊直弼の生い立ち|庶子から藩主、大老への道のり

井伊直弼は、彦根藩の十四男として生まれました。十四男ということは、藩主を継ぐ可能性はほとんどなかったんですね。そのため、彼は「埋木舎(うもれぎのや)」という小さな屋敷でひっそりと暮らし、学問や武道に励んでいました。「埋もれた木のように目立たず生きる」との意味を込めて、この屋敷の名前がついたと言われています。

そんな生活が続いていましたが、1850年、兄の死によって突然彦根藩の藩主になることが決まりました。まるでシンデレラストーリーのようですが、そこから彼の苦労が始まるのです。

井伊直弼の大老就任と幕府での政策

井伊直弼は、1858年に幕府の「大老」というとても偉い役職につきました。これは、将軍を助けて政治を行う立場です。

彼が就任した当時、日本には大きな問題がありました。それは「外国との関係」です。

アメリカのペリーが黒船でやってきて、日本に開国を求めていました。幕府の中でも「開国するべきだ!」という人と、「いや、外国を追い払うべきだ!」という人で意見が分かれていたのです。

井伊直弼は、外国との戦いを避けるために、天皇の許可を得ないまま「日米修好通商条約」を結びました。この決断が、多くの人の反感を買うことになります。

井伊直弼の功績|開国政策と幕府の安定化

井伊直弼の大きな功績の一つが、「開国」です。日米修好通商条約を結んだことで、日本はアメリカと貿易を始めることになりました。その後、オランダ・イギリス・フランス・ロシアとも似たような条約を結び、日本は世界とつながる第一歩を踏み出しました。

また、幕府の中でも強いリーダーシップを発揮し、幕政の安定化を図りました。彼は「開国派」と「攘夷派(外国を追い出すべき派)」の争いを鎮めるため、反対派を弾圧する政策を実施しました。これが「安政の大獄」と呼ばれる事件です。しかし、これが後の悲劇につながっていきます。

井伊直弼の性格・人物像|家臣や同時代の人々の評価

井伊直弼は、「頑固で真面目な人」として知られています。彼はとても規律を重んじる性格で、一度決めたことは絶対に曲げませんでした。そのため、家臣からは「厳しいが、信頼できる」と評価されていました。

また、彼は学問にも熱心で、茶道や和歌にも優れていました。特に和歌では、自分の運命を予言したような歌を詠んでいます。これは、彼が死ぬ前日に詠んだものです。

咲きかけし たけき心の 花ふさは
ちりてぞいとど 香の匂ひぬる

意味としては、「開こうとしている強い意志の花は、散ってしまうが、より一層その香りが広がる」というようなものです。まるで、自分の死を予感していたようですね。

井伊直弼何した人か簡単に:最期とその影響

井伊直弼は、十四男という立場から藩主に成り上がり、幕府の大老に就任しました。その道のりには多くの試練と決断がありました。

しかし、その最後は悲惨なものでした。

桜田門外の変で暗殺された理由

井伊直弼は、1860年3月3日、江戸城に向かう途中で暗殺されました。この事件は「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」と呼ばれ、日本の歴史の中でも特に有名な暗殺事件です。

では、なぜ彼は命を狙われたのでしょうか?

一番の理由は「安政の大獄(あんせいのたいごく)」という出来事です。井伊直弼は、大老として幕府に反対する人々を次々に処罰しました。特に、天皇を中心にした政治を目指していた「尊王攘夷(そんのうじょうい)」派の人々を厳しく弾圧したため、多くの敵を作ってしまいました。

彼を襲ったのは、水戸藩の浪士たち。水戸藩は特に「尊王攘夷」の考えが強かったため、井伊直弼を倒すことで、幕府の方針を変えようとしたのです。こうして、桜田門外の雪の中、井伊直弼は命を落とすことになりました。

安政の大獄と尊王攘夷派の反発|弾圧が生んだ悲劇

「安政の大獄」は、1858年から1859年にかけて行われた大規模な弾圧です。井伊直弼は、開国に反対する人々を「幕府の敵」とみなし、多くの人を捕まえたり、処刑したりしました。

この弾圧では、約100人もの人々が処罰されました。有名な人物としては、長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)がいます。彼は「日本は外国と戦うべきだ!」と主張していましたが、井伊直弼によって捕まり、処刑されてしまいました。

こうした厳しい弾圧が、水戸藩の浪士たちの怒りをさらに強めました。「幕府を正しい道に戻すためには、井伊直弼を討たなければならない!」そう考えた人々が、桜田門外の変を計画したのです。

桜田門外の変後の影響|井伊直弼亡き後の幕府の行方

井伊直弼が暗殺されたことで、幕府の権威は大きく揺らぎました。それまでは、「幕府の決定には逆らえない」という空気がありましたが、彼の死によって、「幕府の方針が気に入らなければ武力で変えられる」という考えが広まったのです。

その後、幕府は水戸藩や尊王攘夷派への弾圧を強めましたが、すでに幕府の権威は崩れ始めていました。結果として、この事件は「倒幕(幕府を倒す)」の流れを加速させる原因となりました。

もし井伊直弼が生き続けていたら、幕府はもっと違う形で存続していたかもしれません。彼の死は、日本の歴史に大きな影響を与えたのです。

井伊直弼の和歌と最後の言葉|覚悟を決めた武士の精神

井伊直弼は、自分が暗殺されることをある程度覚悟していました。桜田門外の変の約2か月前、彼は自分の肖像画を描かせ、そこに和歌を添えました。

あふみの海磯うつ浪のいく度か
御世にこころをくたきぬるかな

(訳:近江の湖の波が何度も打ち寄せるように、私は何度もこの国のために心を砕いてきた)

また、彼が最後に詠んだとされる和歌がこちらです。

咲きかけし たけき心の 花ふさは
ちりてぞいとど 香の匂ひぬる

(訳:開こうとしている強い意志の花は、散ってしまうが、より一層その香りが広がる)

この和歌には、「自分がいなくなった後も、開国という決断が日本に影響を与え続ける」という思いが込められていると考えられています。まさに、歴史に名を残す武士の最後の言葉ですね。

歴史に残る井伊直弼|現代に受け継がれる功績と評価

井伊直弼の評価は、時代によって変わってきました。彼が生きていた当時は、「独裁者」「恐怖政治を行った人物」として批判されることが多かったです。しかし、現在では「日本を守るために最善の決断をした政治家」として評価する声も増えています。

彼の功績として最も大きいのは、やはり「開国の決断」です。もし彼が開国を決断していなかったら、日本はその後、西洋の国々に植民地にされていたかもしれません。実際、当時のアジアの国々は次々と植民地化されていきました。

また、井伊直弼が進めた改革の一部は、後の明治時代の政策にも影響を与えています。例えば、彼が進めた幕政改革は、明治維新後の政府の政策に取り入れられました。

彼の人生は短かったですが、その決断が日本の未来を大きく変えたことは間違いありません。

総括:井伊直弼は何した人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  1. 生い立ちと藩主就任
    • 1815年、彦根藩の第11代藩主・井伊直中の十四男として誕生。
    • 嫡男ではなかったため、「埋木舎(うもれぎのや)」で静かに暮らす。
    • 兄の死により、1850年に第13代彦根藩主となる。
  2. 幕府の大老としての役割
    • 1858年、大老(幕府の最高職)に就任。
    • 開国政策を推進し、天皇の許可を得ずに「日米修好通商条約」を締結。
    • 日本が国際社会に進出するきっかけを作った。
  3. 安政の大獄と反発
    • 開国に反対する勢力(尊王攘夷派)を弾圧し、多くの大名や志士を処罰(安政の大獄)。
    • 吉田松陰をはじめとする反対派の指導者たちが処刑され、反感を買う。
  4. 桜田門外の変で暗殺
    • 1860年3月3日、水戸藩の浪士たちによる襲撃を受け、桜田門外で暗殺される。
    • 「幕府に対する武力抵抗」の先駆けとなり、倒幕運動のきっかけとなった。
  5. 歴史への影響と評価
    • 井伊直弼の「開国政策」は後の明治維新に影響を与えた。
    • 一方で、強引な政治手法や弾圧による反発が大きく、賛否の分かれる人物とされる。
    • 現在では「近代日本の基盤を作った功労者」としても評価されている。