今回は「原敬が普通選挙に反対した理由」について、わかりやすく解説していきます。
原敬(はらたかし)は「平民宰相」として人気があったのに、どうして国民の声に応える普通選挙に反対したのでしょうか?
その背景には、当時の政治や社会の様子、そして彼自身の考え方が深く関わっていますそれでは、時代背景から見ていきましょう。
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原敬が普通選挙に反対した理由とは?背景から詳しく解説
原敬(はらたかし)は「平民宰相」として人気があったのに、どうして国民の声に応える普通選挙に反対したのでしょうか?その背景には、当時の政治や社会の様子、そして彼自身の考え方が深く関わっています。
原敬が普通選挙に反対したのはなぜ?時期尚早と考えた理由
原敬が普通選挙に反対した理由のひとつは、「まだその時期ではない」と考えたからです。つまり、「時期尚早(じきしょうそう)」だと思ったのですね。
当時の日本では、すべての人が学校に行けるわけではなく、新聞や政治に触れる機会も限られていました。そんな中で、急に多くの人に選挙権を与えたら、間違った情報に流される人が増えてしまうと原敬は心配していたのです。
また、原敬は現実的な政治家で、「理想よりも安定」を大切にするタイプでした。国を乱すような急な変化は避けたかったのです。だからこそ、「国民全体の政治意識が高まってからでも遅くない」と考えて、普通選挙に慎重だったのですね。
立憲政友会の支持層と普通選挙への影響
原敬が率いた「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」という政党も、普通選挙に反対する理由のひとつでした。
この政党の支持者は、都市の商人や資本家など、お金を持っている人たちが中心でした。当時の選挙制度では、一定の税金を払っている男性にしか選挙権がなかったため、政友会の支持者は多くの票を持っていたのです。
でも、もし普通選挙が始まってしまうと、税金を払っていない人たちも選挙に参加できるようになります。すると、今まで政友会を応援していた「お金持ちの人たち」の意見が通りにくくなってしまう可能性があるのです。
だから、政友会としても普通選挙には反対したい、という思いが強かったのです。原敬も政党のリーダーとして、その意見を無視するわけにはいきませんでした。
当時の社会情勢とマルクス主義への恐れが反対の理由に
原敬が普通選挙に反対したもう一つの大きな理由は、当時の社会に広がっていた「マルクス主義(しゅぎ)」や「共産主義(きょうさんしゅぎ)」に対する不安です。
マルクス主義とは、貧しい人たちが力を持ち、お金持ちや権力者をなくして平等な社会を作ろうという考え方です。これは、ロシアで革命が起きたあと、世界中で注目されていました。
しかし、天皇を中心にした日本の国の仕組みとは相いれないもので、当時の政府や政治家は「もしこの考え方が広まったら、国が大混乱するのでは」と強く心配していました。
普通選挙をすると、多くの労働者や農民にも選挙権が広がります。その結果、マルクス主義のような考えを持った人たちが国会にたくさん入ってくるかもしれない、と原敬たちは恐れていたのです。だからこそ、選挙権を広げることに慎重だったのですね。
原敬の政治的スタンスは?民本主義との違いを解説
原敬は「現実主義者(げんじつしゅぎしゃ)」として知られています。つまり、理想よりも現実に合った政策を大切にする政治家でした。
この考え方は、当時人気のあった「民本主義(みんぽんしゅぎ)」と違います。民本主義を提唱した吉野作造(よしのさくぞう)は、「国民が政治の中心になるべきだ」と考え、普通選挙を進めようとしていました。
しかし原敬は、「急に民意を重視すると、国が不安定になる」と考えていたのです。だから、民本主義のような理想に対しては少し距離を置いていました。
また、原敬は「立憲政治を安定させるためには、時間をかけて国民の理解を深めることが大事」と信じていました。民衆の教育や情報へのアクセスが進まないうちは、大きな政治改革は危険だと見ていたのです。
普通選挙反対が暗殺の一因に?その後の影響も紹介
1921年、原敬は東京駅で一人の青年に刺され、命を落としました。犯人は新聞記者を志していた青年・中岡艮一(なかおかこんいち)でした。中岡は「原敬の政治に不満を持っていた」と言われています。その理由のひとつに、「普通選挙に反対している」ということもありました。
原敬は平民出身の首相として期待されていましたが、実際には民衆の声に応えきれない面も多かったのです。そのギャップに失望した若者たちの中には、強い怒りを持つ人もいたようです。
この暗殺事件は日本中に大きな衝撃を与え、「やはり民意を無視してはいけない」という空気が生まれました。結果として、普通選挙の実現に向けて、社会全体が大きく動き出すきっかけにもなったのです。
普原敬が普通選挙に反対した理由:通選挙をめぐる歴史
ここからは、「普通選挙とは何か?」「原敬の時代とどうつながっているのか?」を詳しく見ていきましょう。普通選挙は、今の日本では当たり前のように思える制度ですが、そこに至るまでにはたくさんの努力と歴史があったのです。
普通選挙とは?意味と制限選挙との違いを解説
「普通選挙(ふつうせんきょ)」とは、特別な条件がなく、ある年齢以上の国民なら誰でも選挙に参加できる制度のことです。一方で、「制限選挙(せいげんせんきょ)」は、投票するためにいろいろな条件がある制度を指します。
原敬の時代は、制限選挙が行われていました。25歳以上の男子で、ある程度の税金(直接国に払う税)を納めている人しか選挙権を持っていなかったのです。
つまり、当時の選挙は「一部のお金を持っている男性」しか参加できなかったのです。これでは、多くの農民や労働者、若者たちは政治に関われないということになります。だからこそ、「すべての大人に選挙権を!」という声が高まり、普通選挙を求める運動が始まったのです。
原敬政権下の選挙制度はどうだった?納税資格の仕組みを紹介
原敬が首相だったときの選挙制度は、さきほどの「制限選挙」でした。このとき、選挙権を持っていたのは「直接国税を年3円以上納めている25歳以上の男子」に限られていました。
今の時代に比べると、かなり限られた人しか選挙に参加できなかったことが分かりますね。特に農村部や貧しい人たちは、この条件を満たせなかったため、ほとんど選挙には参加できませんでした。
この仕組みでは、都市に住む商人や資本家が強い影響力を持つことになります。原敬がこの制度を変えようとしなかったのは、自分の政党の支持層がこの制度で有利だったからとも言われています。つまり、制度を変えると自分たちが不利になることも、反対の理由になっていたのですね。
大正デモクラシーとは何?民衆の声が政治を変えた時代背景
原敬が首相になった時代は、「大正デモクラシー」と呼ばれる時期でした。これは、大正時代に広がった「国民がもっと政治に参加しよう」という動きのことです。
このころ、日本では教育が進み、多くの人が文字を読めるようになりました。
新聞も広まり、いろんな人が政治についての情報を知るようになってきました。すると、「自分たちも政治に参加したい!」という声が高まっていきます。
これを後押ししたのが、「護憲運動(ごけんうんどう)」という国民の大きな動きでした。
政治を一部の人だけで決めるのではなく、国民全体の意見を取り入れるべきだという流れがどんどん強くなったのです。原敬はこうした流れの中で首相になったにもかかわらず、普通選挙には反対しました。そのギャップが、民衆との距離を広げてしまったのです。
原敬の後に普通選挙法はどう実現した?加藤高明内閣の功績
原敬の死後、日本の政治は大きく動き出します。1924年に成立した加藤高明(かとうたかあき)内閣では、「護憲三派(ごけんさんぱ)」と呼ばれる3つの政党が協力し、政治の改革を進めました。
その中で一番大きな改革が、1925年に成立した「普通選挙法」でした。この法律によって、「25歳以上のすべての男子」に選挙権が与えられることになったのです。納税の条件はなくなりました。
これまでの制限選挙に比べると、選挙権を持つ人の数は約2倍にも増えました。
国民の声がより広く政治に届くようになったのです。この改革は、日本の民主主義にとって大きな一歩でした。原敬が反対していた普通選挙ですが、彼の死後、多くの人の努力によってついに実現したのです。
なぜ普通選挙は日本で重要だった?メリットと民主主義への一歩
最後に、「普通選挙がなぜ大事なのか」を考えてみましょう。
普通選挙が行われると、お金のある人だけでなく、すべての国民の声が政治に反映されるようになります。これは、民主主義の基本です。誰もが平等に意見を言える社会をつくるために、普通選挙はとても重要なのです。
また、選挙権を持つことで、国民一人ひとりが「社会の一員」としての意識を持つようになります。自分の一票が国を動かすかもしれないと思えば、政治に関心を持つ人も増えていきますよね。
日本が今のような民主的な国になるまでには、たくさんの人の努力と戦いがありました。原敬の時代には難しかったことも、時間とともに実現していったのです。
総括:原敬が普通選挙に反対した理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 原敬は「時期尚早」と考え、国民の政治的成熟が足りないとして普通選挙に反対した。
- 原敬の所属する立憲政友会の支持層(都市の資本家・富裕層)が普通選挙によって不利になるのを懸念していた。
- 当時の社会では、マルクス主義・共産主義への不安があり、民衆に選挙権を広げることで政治が不安定になると恐れた。
- 原敬は「現実主義者」であり、理想を追いすぎず、安定した政治を優先していた(民本主義とは距離をとっていた)。
- 普通選挙に反対したことも背景となり、原敬は青年に暗殺され、日本中に大きな衝撃を与えた。
- 普通選挙とは、特別な条件なしに国民が投票できる制度で、原敬の時代は「納税資格あり」の制限選挙だった。
- 原敬政権では納税条件のある男子しか投票できず、貧しい層は排除されていた。
- 大正デモクラシー期には教育や新聞の普及で国民の政治参加意識が高まり、普通選挙を求める声が強まっていた。
- 原敬の死後、1925年に加藤高明内閣によって普通選挙法が成立し、25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられた。
- 普通選挙は民主主義の基本であり、国民が平等に政治に関わる社会を実現するための大きな一歩となった。