今回は「昭和天皇はなぜ戦争を止められなかったのか?」という、歴史の中でもとても大切なテーマについて、分かりやすく解説していきます。

実はこの問題、単に「天皇が悪かった」や「何もできなかった」といった単純な話ではありません。

昭和天皇は戦争に反対の気持ちを持ちながらも、結果として戦争を止めることができませんでした。では、なぜそうなってしまったのか?一緒に見ていきましょう。

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昭和天皇はなぜ戦争を止められなかったのか?その理由

昭和天皇が戦争を止められなかった理由はひとつではありません。軍部の暴走、政府の判断、昭和天皇自身の苦悩、そして国民世論まで、さまざまな要因が複雑に絡んでいたのです。

ここでは5つのポイントから、その理由を分かりやすく解説していきます。

陸軍の独断専行と「下剋上」体質が背景

まず、最大の理由のひとつが、軍部―特に陸軍の「暴走体質」です。たとえば1928年の張作霖爆殺事件では、関東軍という現地の陸軍部隊が、政府や天皇の命令を無視して勝手に中国の軍閥指導者・張作霖を暗殺しました。

この事件に昭和天皇は激怒しましたが、結局、関東軍の処罰は軽く済まされ、責任の所在もうやむやになってしまいました。

天皇自身も後に「あのとき厳罰にしていれば…」と強く後悔しており、この時から「下剋上」が常態化していったのです。つまり、本来なら天皇の命令に従うべき軍が、逆に政治を動かす力を持ち始めてしまっていたのです。

田中義一事件の教訓が「消極姿勢」を生んだ

張作霖事件を受けて、昭和天皇は当時の首相・田中義一を厳しく叱責し、ついには辞任に追い込みました。しかしその数ヶ月後、田中首相は急死。この出来事は、若き昭和天皇にとって非常にショックな出来事でした。

その後、天皇は「内閣の決定には基本的に従う」という立憲君主としての立場を強く意識するようになります。これが、戦争を止める場面でも「裁可はするけれど、内閣に逆らってまで強く出るのは避ける」という消極的な態度に繋がってしまったのです。

御前会議での消極的な態度と「勢い」の中の苦悩

1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対して開戦を決定しました。その直前に行われたのが「御前会議」です。これは天皇の前で、政府と軍の幹部が方針を決める大事な会議ですが、昭和天皇はこの場で反対の意をにじませながらも、最終的に裁可を与えました。

後に天皇は「勢いに引きずられた」「一部の者の意見が大勢を制してしまった」と語っています。これは、自分の意志だけでは流れを止められなかった苦悩を意味しています。

つまり、天皇に形式的な権限はあっても、実質的にその権限を使うことはできなかったのです。

戦争を望む世論とマスコミの扇動も影響した

当時の日本は「戦争したい国」だったのでしょうか?

実は、国民の多くもまた「戦争やむなし」という空気に染まっていました。「自存自衛」や「アジアの解放」というスローガンのもと、新聞やラジオなどのマスコミが戦争を正当化し、国民の心を煽っていたのです。

このような中、天皇ひとりが「戦争反対」と強く言っても、それが通る状況ではありませんでした。大勢の民意と時代の空気に、天皇も抗いきれなかったのです。

三国同盟・近衛内閣の判断ミスが大きかった

もう一つの大きな要因は、近衛文麿内閣の政策判断です。ドイツ・イタリアとの三国同盟を結び、南部仏印に進駐したことで、アメリカからの経済制裁(特に石油の禁輸)を招いてしまいました。

これにより、日本は「戦争をするしかない」という状況に追い込まれていったのです。

昭和天皇は後に「近衛が始めた戦争」と語っており、戦争の判断はあくまで内閣にあったという姿勢を示しています。つまり、裁可を出したとはいえ、実際にはすでに道ができあがっていた、というわけです。

昭和天皇が戦争を止められなかった理由:戦争責任の有無

ここまでは「なぜ昭和天皇が戦争を止められなかったのか」を5つのポイントから見てきました。では次に、「昭和天皇に戦争の責任はあるのか?」という、さらに深いテーマに入っていきましょう。

この問題もまた、単純な白黒では語れません。昭和天皇の立場、時代背景、戦後の処遇など、いろんな角度から見ていく必要があります。

戦争責任はあるのか?昭和天皇の発言と「反省」の意図

まず注目したいのが、昭和天皇自身が戦後に語った「反省」という言葉です。昭和27年頃、宮内庁長官・田島道治とのやりとりの中で、昭和天皇は「反省の文字はどうしても入れたい」と繰り返し話していたそうです。

しかし実際には、吉田茂首相らの反対によって、その「反省」の言葉は公の場では使われませんでした。

このことから、「昭和天皇はある程度、自分の責任を感じていたのでは?」と見る向きもあります。ただし、明確な謝罪や責任の表明は一切なかったため、「気持ちはあっても不十分だった」という批判の声も根強いです。

統帥権と形式的な最高指揮官としての位置づけ

昭和天皇は当時の憲法上、「統帥権」を持つ最高指揮官とされていました。つまり、陸海軍を指揮する最上位の存在だったのです。

ですが、実際の軍事判断は参謀本部や軍令部によってなされており、天皇自身は軍の細かい作戦や決定には関わっていませんでした。

このように、形式的には「最高責任者」でも、実務上は「報告を受けて承認するだけ」という立場だったことが、戦後の東京裁判で訴追されなかった理由のひとつです。

つまり、責任が「あるとも言えるし、ないとも言える」という複雑な立場にあったのです。

戦争継続に固執した「一撃講和論」への指摘

終戦間近の昭和天皇の発言に、「一撃講和論」という考えが見られます。これは「一度戦果を挙げてから、いい条件で講和を結びたい」というものです。

たとえば、昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてから講和の機会を見つけたい」と語っており、この思考が戦争終結を遅らせた原因のひとつとも言われています。

もしもっと早く終戦に動いていれば、東京大空襲や沖縄戦、そして広島・長崎の原爆投下も避けられたかもしれません。

そのため、「昭和天皇が結果的に戦争を長引かせた責任がある」という見方も一定数存在します。

東京裁判で裁かれなかった理由

戦後、連合国によって行われた「東京裁判」では、東條英機ら多くの軍人や政治家がA級戦犯として裁かれましたが、昭和天皇は訴追されませんでした。

この背景には、GHQ(連合国軍総司令部)――特にマッカーサーの方針がありました。戦後の混乱を抑えるため、日本の「象徴」として天皇制を残す方が得策と判断されたのです。

つまり、免責されたのは「無罪だったから」ではなく、「政治的な理由から裁かれなかった」という側面があります。この点は、戦争責任を考えるうえでとても重要なポイントです。

現代の評価と議論の継続性

現在でも「昭和天皇に戦争責任があったのか?」という議論は続いています。学者の間でも意見は分かれており、「責任あり」とする声もあれば、「制度や時代背景を考えると限定的だった」とする声もあります。

また、戦後世代の国民の間でも、評価は大きく揺れ動いています。つまり、昭和天皇の戦争責任というテーマは、時代の価値観や資料の発見によって今後も変化しうる問題なのです。

だからこそ、この問題に正解はなく、私たち一人ひとりが自分で考え続けることが大切なのです。

総括:昭和天皇が戦争を止められなかった理由まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

■ 昭和天皇が戦争を止められなかった理由

  • 陸軍の独断専行(下剋上)により、天皇の命令が通らなかった
  • 田中義一事件での後悔から、内閣の判断に逆らわない姿勢に変化
  • 御前会議では「勢い」に流され、消極的な態度に終始した
  • マスコミと国民世論が戦争を支持していたため、逆らえなかった
  • 三国同盟や近衛内閣の外交判断ミスが戦争回避を困難にした

■ 昭和天皇の戦争責任の有無

  • 「反省」の言葉を使いたいと語るも、公の場での謝罪はなかった
  • 形式上の統帥権者だったが、実務には関わらず裁かれなかった
  • 「一撃講和論」によって終戦が遅れたとの指摘もある
  • 東京裁判ではGHQの政治判断により免責された
  • 現代でも評価は分かれており、議論は今も続いている